産前産後プランニングの伴走者
助産師ゆかりんです。

今日は私の自己紹介です。


私が産まれたときのこと

私は、正期産に入ったばかりの37週で
産まれました。

2200グラム出生で、低出生体重児。
昔で言う未熟児でした。
約一ヶ月、保育器に入っていたそうです。

母子健康手帳には
はじめて母乳を与えたのは生後28日目と書かれていました。
通常は〇〇時間後って記載が多いです。

本当かな?と思い
母親に看護学生時代に聞いてみたら
本当でした。
「保育器入っていたから、母乳あげられなくて」
「母乳搾ってみたけど全く出なかったの」
そう言われました。
完全ミルク育ちの私ですが、特段困ることなく現在に至ります。

低出生体重児の管理については
現代のものと違う40年前の話なので、参考までに。

看護師になるきっかけ

小学校の時に、曾祖母が亡くなりました。
いわゆる老衰で、自宅での看取りでした。

3世代同居で、仲は悪くなかったと思います。
今は介護施設や療養病院での見取りも当たり前になってきましたが
昔は、自宅での見取りが当たり前で
家族の女性が頑張って介護するというのが普通だったように思います。
親族に看護師が何人かいて、時々様子を見に来てくれました。

曾祖母は、
神棚のある広い和室で過ごしていました。
食事の時は歩いて居間にきて
一緒に食事を摂っていましたが
それも難しくなってきたときは
和室と居間の襖を全開にして、見えるようにして一緒に食事をしていました。

私は、看護師である母親に
排泄の介助を教えてもらいました。
特に嫌な気持ちはなく、率先して介助させてもらいました。
温かいタオルで体を拭いたり
おしもを洗い流したり
「ありがとう、気持ちよかったよ」と
言ってもらってとても嬉しかったです。
そのときの胸がほっこりしたあの感覚は
忘れられないもので、今でも蘇ります。

母親の仕事ぶりは
当時はこんなものかなとみていましたが
看護師になってからの視点で振り返ると
テキパキしているデキる看護師だったと
認識が変わりました。

そんな母親に
常日頃言われていた言葉の一つは
「女も資格を持って、自立して働くべきだ」
です。

小1くらいから言われていたので
頭の中に焼き付いています。
母曰く、男性が外で稼いで
女性が家を守るとスタイルは時代遅れになるだろうと言う意味だったそうです。

そんな環境下で育った私は
高校で進路を決めるときには
看護師になろうと決意して
看護学校を受験。
はれて、寮のある看護学校へ進学しました。





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