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なぜいつも君は、このタイミングなのか。

息子の通う高校が、やっと登校できるようになって数週間。オンライン授業だけの日もあるけれど、登校できるというのはやはりありがたいことです。

大学は未だに通学できず、高額な費用を払っているのにも関わらず、通信教育にも満たない水準の授業が続いています。(愚痴入りました。)

高校の方は休校時、膨大な課題が出たようです。そして登校し始めてからも、なかなか大変な模様。1回分のテストが中止になったので、例年とは違うタイミングで、広い範囲の定期テストが行われるからだそうです。

まぁ、たいへんですな。

なんて思いつつ、彼の愚痴やら何やらを聴いてあげる時間が、数日おきに発生しています。

いいんです。
ええ。ストレス溜まるでしょうよ。
実際、たいへんでしょうな。

なんて思いつつ、彼の話しを聴いてあげようと思うのですが・・・。
だいたい、そのタイミングが悪い。
私が仕事に集中し始めた瞬間。お客様にメールを書いている途中。言葉がひらめいた時だったりするわけです。

ふぉぉぉぉぉ
何にもできにゃいーーー

心の声がだだ漏れしそうになりながら、
「ああ、そうなんだ」
「なにそれ?」
「ふーん」
とか、適当に相槌をうっている私がいます。

たまに、古文やら日本史の問題を出されつつ、それに意地になって答えつつ、時は過ぎていきます。


「じゃあな!」

やっと出ていきました。
そしてふと、思い出します。
外出自粛になって、休校になり、保育園・幼稚園・小学生の保護者が「在宅ワークはいいけど、子どもがいて集中できないよ」と言っていたことを。

ただ子どもの遊ぶ声がうるさいとか、そういうことじゃないんですよね。
同じ家、同じ部屋にいたら、子どもは親に話しかけてくるわけです。
当然です。子どもは悪くないですよ。


そういえば、彼が私の部屋に来てくつろいでいくことは以前からありましたが、休校になってから増えたことに気づきました。

何だか幼い頃の名残りを見た気がして、不覚にも少し気持ちがゆるんでしまったわけです。


さて、「在宅ワーク」というもの。
これって果たして良いものでしょうか?

この問いの答えは、当然ながら「それをする人」にしか持っていないのです。やむを得ないながらも、突然それを強いられたことによって、世の中に変な違和感があるように感じます。

友人は都内のある会社に勤めています。
コロナの件があり、在宅ワークとなりました。緊急事態宣言が解除されてからは、週に1回程度の出社だそうです。

ある意味恵まれた職場・職種なのかもしれません。
けれど、友人はもともと「在宅ワーク」を条件として就職したわけではないのです。

通勤が面倒であったり、電車が混んでいたとしても、会社に行くことで誰かとコミュニケーションを取って笑い合いながら仕事をしていました。
それがなくなりました。
年老いたお母様と二人、ひたすら朝昼夜と食事を共にして仕事をしつつ過ごしているそうです。

正直、寂しいと。
複雑な心境だと。


「タイミング」というキーワードが頭に浮かんだら、いろいろな場面での「タイミング」が頭に浮かんで、止まらなくなりそうです。

要は、世の中の変化は、まだジワリジワリと私たちの生き方に影響し続けるということです。

この変化を、やはりジワリジワリと察知していく。
ちゃんと、察知していきたい。

母がそんなところまで思考が巡ったことを知らぬ息子が、自分の部屋のドアの角に肩をぶつけた音がします。

「いてぇ!」

さ。集中できなかったけれど、やっと本日のnoteが書き上がります。

明日も書きます。
明後日も書きます。
ずっと、書きます。




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