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その"美しい"は受け取りたい。

これは私なりの、写真展へのエールだ。少なくとも、そのつもりで書いている。

マイフェイス・マイスタイルの方々とは面識がないけれど、機会を作って会ってみたいと思っている。いろいろなことを、話したい。

写真展の企画を目にした時、心がざわざわした。元々私は「見た目問題」が注目されることを素直に喜べるタイプではない。理由はいろいろあるが、一番大きいのは、アルビノ=「見た目問題」の一つと定義されてほしくないからだと思う。

「見た目問題」やユニークフェイスといった"外見"の症状の存在は認めるが、私はそれよりも"視力"が悩みの種だった。自分のなかでのつらさの定量化なんてやるべきじゃないのかもしれないが、確実につらさの度合いはあるだろう。そしてそれは人によって違う。アルビノは弱視を伴うことが多く、私も弱視で、そのことについて悩んできた。

車の運転免許が取れないこと、見えないものがあること、見えていないことすら自覚がない場合があること……。普通の人との"差"を感じる度に視力が欲しくてたまらなくなった。視力があればうまくいっただろうことは、数えきれないほどある。

でも、きっとそれだけじゃなかった。

この写真展は私にとって"直視したくない現実"の一つだった。写真展のテーマは、「無自覚なボクが、いま言いたいこと」。私はここから目を背けたかった。

何故かはわからないけど、目を背けたいと心が言っていた。だから、目を背けてきた。幸か不幸か、私は東京にはいないからそれも容易だった。薄目でTwitterを眺めて、なかったことにしてしまえばいい。だって何かざわざわするから。

そんな時に、モデルの一人である神原さんによるエッセイが公開された。

神原さんのエッセイは優しさが溢れていて、私とはまた違ったテイストがある。優しさというか、いたわりというか、そういうものが芯にある。

そんな優しい人の文章を読んで、私は写真展から、そしてそのテーマから、目を背けることをやめた。神原さんはエッセイのなかで自己満足と書いているけど、顔も本名も出していることには覚悟があると思う。障害者などマイノリティが何かを言う時、顔や本名をさらさなければいけないということはない。ないけれど、顔や本名を出して、写真展のモデルをすることは大きな決断だ。

そしてその決断は、確実に「見た目問題」解決に向け、時計の針を進めている。

私は遠く離れた地で、神原さんのことを見ているだけでいいのだろうか。そんな思いが生まれた。"視力"が欲しくてたまらないけど、"外見"で差別された経験もあるし、こうして書いている私がやるべきことは逃避ではないはずだった。

では、私は何から逃げたかったのか。逃げることは悪いことではない。この問題から逃げることだってできたし、神原さんのアルビノ女子日記を読むまでは本当にそのつもりだった。

写真展そのものというより、写真展のテーマから逃げたかったのだろう。私は、自身の無自覚に助けられ、無自覚で人を傷つけ、そのことに気づかず生きていた頃がある。今だって無自覚に人を傷つけているだろう。

こんなこと言いにくいんだけどさ、と前置きして知人が言った。

「正直アルビノは綺麗だから他の(当事者の)人とは違うよね」

その言葉に、曖昧に頷いてしまったこと。今はとても後悔している。その人に"外見"でアルバイトを落とされた話は多分していなかった。知人は、善意のまま、私を特別扱いし、そして他の"外見"に症状のある人々を差別したのだ。それを否定しなかった私も、知人と変わらない。そんな"無自覚"から逃げたかった。

そして"無自覚"は私を助けてくれることもあった。神原さんはエッセイで好奇の視線を感じることがあると書いているが、私は視線に疎い。見られていることに"無自覚"だ。

それは発達障害の一つ、ASD(自閉症スペクトラム/アスペルガー症候群)によるものらしい。特性として、視線を感じたり表情の変化を読み取ったりすることが苦手なのだ。(目が悪くて表情が見えにくいことも関連している可能性はあると思う。)だから、視線を向けられても、見られていることに"無自覚"でいられる。このことがどれほど私を助けたかはわからないが、かなり助けられているだろう。

私と歩くと、視線が集まることを同行者の言葉で知った。それほどに"無自覚"なのだ、私は。

写真展をやって欲しくなかったのかと問われれば、それは違うと答える。開催はありがたいと思うし応援したい。

神原さんの瞳の写真を見て、「美しい」と感じた。そして同時に、「ここでは美しいって言っていいんだ」と許された気がした。

アルビノを綺麗と言っていいかについては、いろいろな当事者がその人なりの思いを表現している。

私は他のアルビノの人に会った時、よく考えもせずに「美しい」とか「綺麗」と言ってしまうことがある。ポジティブなことなのだから伝えることは悪いことじゃないと盲目的に考えていた時期まであった。今はその人の背景があるのだから、そう言われて嬉しいか推測しようとするようになったが、それでもやはり、滲み出るものはあるらしい。

自分だって、「綺麗」と言われてもやもやすることがあるのに、何て自分勝手なんだろうとも思うし、私は"当事者になら"「綺麗」って言われてもいいから他の方もそうだと思いこんでもいた。人には人の感じ方があるんだと自戒のために書いておく。私が"同じ"だから許してくれていた人もいると思う。配慮に欠けていて申し訳ない。

見知らぬ人に「綺麗」と言われるのはあまり嬉しくない私だが、この写真展でアルビノの神原さんが「美しい」、「綺麗」と言われることを想像してみたら、あたたかい気持ちになれた。

この写真展でモデルとなった当事者の方々に向けられる視線は今までよりはきっとあたたかいものだろう。そう思う。

写真は、一つのエビデンスであると思う。"外見"に症状のある当事者が存在することを示す、強力なエビデンス。私の文章だって無力とは言わないが、例えばここで私が自撮り写真を上げたら、それ一つで雁屋優を思い描くことができる。それほどに写真は強力なのだ。

かつての"無自覚"で人を傷つけたこと、今も"無自覚"に助けられていること。この"現実"から逃げない。

執筆のための資料代にさせていただきます。