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「男と女が恋愛するもの」から「人は誰かと恋愛するもの」に変わっただけならやっぱりそこはつらい世界だ。

レインボーフラッグとともに、LGBTやセクシャルマイノリティという単語が認知されてきたなあと思う一方、恋愛至上主義は薄れてないなと危機感を抱く。

私は体は女だけど、心は男でも女でもないときがある。それを無性と呼ぶのか、中性と呼ぶのか、自分でも決めかねている。

性欲がないノンセクシャルと恋愛感情を抱かないアセクシャルを行き来するセクシャリティ。いや、もしかしたらノンセクシャルでアセクシャルなのかもしれない。

世の中の認知はセクシャルマイノリティと言えば、L! G! B! 他はよくわからない! みたいな感じである。そもそもLGBTって言葉で一括りにしようとするのが無理があるんだけど。だって、アセクシャルとノンセクシャルを揺れ動くと自認する私にだって、まだ理解しきっていないセクシャリティはある。性と性的指向は多様で、理解しきることは多分ないのだろう。勿論、勉強はしていくけれど。

そんな世の中のセクシャルマイノリティへの雑な認識は今、「男と女は恋愛するもの」から「人は誰かと恋愛するもの」に変わろうとしている。つまり、恋愛至上主義のまま、LGBを受け入れて、それでセクシャルマイノリティを受け入れた気になろうとしているのだ。

それはつまり、「結婚しないの? 今は同性でも結婚できるのに」とか、「彼氏も彼女もいないなんて人間的に問題がある」とか、そんなことを言われる可能性があるということだ。それでは今と何も変わらない。

そうじゃない。セクシャルマイノリティを理解し受容するとはそういうことではない。

「男と男も恋愛するし、男と女も恋愛するし、女と女もする。そして恋愛しない人もいる」という認識が広まっていくことだ。後半を省いてはならない。

恋愛至上主義のまま、セクシャルマイノリティを受容したつもりになってしまっていないだろうか。これを書きながら自分にも問いかけ続けるのだった。

執筆のための資料代にさせていただきます。