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見られ続けた人々が撮られて、見えてくるもの。~BOTCHAN×MFMSの写真展を訪れて~

私は写真撮影が好きではない。幼い頃は笑顔の写真だってあっただろうに、現在、スマホで撮るのは食べ物ばかりとなっている。

アルビノだから眩しがり(羞明)で、デジカメ時代には赤目になりやすくて、日焼けを避けるためには外での撮影も短時間でしないといけない。目が不随意に動く(眼振)から、シャッターチャンスはそんなにない。

私は映像や写真をあまり記憶できない方なので、それもあって、自撮りも被写体になることも、どんどん避けるようになった。撮影は難しいし、撮ってもすぐ忘れちゃうし、後から眺めるほどの関心もないし。

それでも、自分と同じくアルビノの神原由佳さんと粕谷幸司さんがモデルとして参加している写真展は気になった。「YOU DO YOU. あなたらしさはあなたのもの。」をスローガンとし、メンズコスメブランドBOTCHANと「見た目問題」解決NPOマイフェイス・マイスタイル(MFMS)がコラボした写真展だ。

ちゃんと目が開いている!

下北沢のリロードに到着し、神原さんと粕谷さんの写真を発見した私が最初に思ったのは、「ちゃんと目が開いている!」だった。私の撮られ方が下手なのか、眩しさや眼振のせいなのか、私の写真でしっかり目が開いているものを探すのは難しい。だから、お二人の目がはっきり見えて、感動した。

撮るのプロなんだから当たり前かもしれない。でも、私にとってそれは当たり前ではなかった。学校でプロの方が来て撮ってくれる集合写真ではいつも、「雁屋さん、目を開けて!」「カメラを見て!」と言われ、写真館での撮影でも、店主の方が相当に苦慮されているのが伝わってきた。

目、開けているんだけどな。
眩しいからこれ早く終わんないかな。
カメラを見ているつもりだよ。
眼球が勝手に動くから外からどう見えているのかは知らないけど。

もちろんあの頃より撮影技術が向上しているのもあるだろうけれど、写真展で流れていた映像を見る限り、いい雰囲気で撮影が進んだのが伝わってきた。撮られることに難がありながら、映像のなかのお二人はそこではなく、撮影そのものを自分がどう感じたか言葉にしていた。それがすべてだ。

被写体になって見えてくるものも、あるのかもしれない

そもそもにして、「見た目問題」の当事者を被写体にすること自体が、ある種の問い直しである。特異的な容姿をしているがゆえに、「見た目問題」の当事者は好奇の視線にさらされてきたからだ。

アルビノ、あざ、脱毛など「見た目」に症状がある。それだけで、見知らぬ人に待ち合わせの目印にされたり、SNSに「〇〇駅にこんな人がいた」と書かれたり、通りすがりにじろじろ見られたりする。見られた経験は十分すぎて、私自身は被写体をしてみたいとは思わなかった。

もう人に見られたくないというより、容姿について問われて何か反応することそのものが、めちゃくちゃダルい。面倒くさいでもかったるいでもなく、「え、またこれ私がやんなきゃいけないの。ダルい」としか言えない億劫さ。

そういう億劫さもあって、今私は顔出しをしないで仕事をしている。文筆業だとこれくらいの髪の色の人も珍しくはないようで、アルビノの説明をしないでいられることも少なくない。「問われない」って、想像以上に快適だ。

そんな私だが、写真展に行ってみて、写真を間近で見ていると、「見られ続けてきた当事者達が被写体をするのは、案外効果的かもしれない」と思えた。

理由は二つ。当事者自身が自分の魅力や望みに気づける可能性があること。そして、無防備にただ「見られる」よりも「撮られる」方が何を見せるか、コンテンツの作り手による制御ができること。

被写体をするからには、当然撮影者がいる。この企画ではスタイリストさんなど、他の職種のスタッフさんも関わっているので、撮影現場には多くの人がいる。好奇の目で見つめる他人ではなく、被写体とともにいいコンテンツを世に出したい人達だ。

制作のためにあれこれとすりあわせをしていくなかで、被写体となった当事者は、他者から見た自分の魅力に気づかされて、自分が本当は何をしたいのかに向き合うことになるのではないか。いつもはしないファッション、メイクが案外似合う、本当はこういうファッションもちょっと興味があった、などなど。

そして、写真というフィルターを通すからこそ、コンテンツの作り手側で、何を見せるかを選べる。文章であれ、写真であれ、映像であれ、コンテンツの形をなし、完全にライブでないものは、編集の過程を経るからだ。

それを上手く使えば、「私をこんな風に見て」と見られ方を絞る効果も期待できる。今まで否応なしに視線にさらされてきた「見た目問題」当事者にとっては画期的な状況だ。

編集にはメリットもデメリットもあると承知の上で、「見た目問題」当事者がコンテンツの作り手となり、見られ方の制御を少しだけ取り戻すことの意義は大きいと思う。

そう言いつつ、私は顔出しなしを覆さない。マイノリティが不均衡に高いリスクを負うことなく、言論空間にいられる社会にしたいのは変わらないから。でも、自分の白い手は好きで、手のモデルのなり方を調べた時期もあったので、手は出演可能だ。

手の需要、あるいは文章の需要があれば、ご連絡を。

以下は、この企画に関するプレスリリース。


執筆のための資料代にさせていただきます。