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FAT LAVA: Silberdistel【ライフワーク】

おはようございます。
今年は少し薄雲がかかってはいるものの陽の光が暖かい、気持ちのいい朝ですね。

今日も西ドイツ時代の陶器において、その代名詞とも言えるFAT LAVAの作品を多く作り、その名を世界に知らしめたファクトリーを1つずつ掘り下げていきます。

Silberdistel(シルバーディステル)

今日ご紹介するのはSilberdistel。
文字の羅列で見ると見たことない、どこでどう切るものかと思うけど、名前を読んでみると「しるばーでぃすてる」→「シルバー・ディステル」→「銀の何か?」と読み解ける。結局ドイツ語も英語もゲルマン語派の同じ種類の言葉だから似ている。
ヨーロッパにはそれぞれの国がそれぞれの言葉を持っているけど、大きく分けて3つの言語に分けられる。北西欧を中心にオランダ語や北欧3国を含むゲルマン語、フランス語やイタリア語、スペイン語はもちろんカタルーニャ語、シチリア語など南西欧に広がるロマンス語、そしてロシアからドイツのお隣ポーランドやイタリアに隣接するスロベニアやクロアチアまで中欧から東欧までに広がるスラヴ語の3つ。これらの3つの中でも時代によって支配者が異なり異なる線引きがされていたことでそれぞれの言葉も混ざり合っていて、地続きの国同士の共通性とその中にある地域性が楽しめるのが面白い。

ファクトリーの起源

1947年にJohann and Grete Breu(ヨハン・ブリューとグレーテ・ブリュー)によってGevelsberg(ゲフェルスベルク)で設立。 Gevelsbergはドイツ中西部の大都市ドルトムントやデュッセルドルフの間にある小さな町。(ちなみにやはり小さな川が流れている、備忘録として)
そして、Silberdistelという名前はやはり"silver thistle"、オーストリアとスイスのアルプスに生えるシルバーアザミの一種に由来している。 今まで見てきたファクトリー名で一番ロマンティンクかも笑

Silberdistel (Wikipediaより参照)

1952年にハノーバー でのthe Worms Terra Sigillata Manufakturとの共同展示会に参加したことで、Silberdistelの名は広く知れ渡ることとなる。しかし、1950年代から1960年代にかけてドイツの陶磁器産業が急速に拡大していた時期でも、Silberdistelは小さな工房として存続。これによって品質は高く評価されているものの、残されている作品は他のファクトリーと比べて少ない。
1980年代には他のファクトリー同様に業績が悪化、2005年にSilberdistelの名は Carstens に引き継がれた。それ以来ベルリンから75km北にある小さな町、ラインスベルクで生産されるようになりました。 現在の生産ラインは、3つの装飾 (アイスランド、サハラ、コーラル) の150種類の異なる形状で構成されています。

Silberdistelの特徴

Silberdistelは、非常に高品質で職人技による花瓶、ボウル、水差し、その他のセラミック製品を製造しました。限られた人数の職人達による確かな製造方法と使用される多種多様な複雑な釉薬でよく知られるようになった。
多くの場合、異なる色のいくつかの釉薬を重ねて溶かします。技術者は、納得できる釉薬ができるまで時間のかかる実験に数か月を費やして完成させました。初期のアイテムの多くは'Craquelé-Fayencen'(クラクエレ・ファイエンセン=ひび割れた焼き物)という名前で提供されており、その名前が示すように、60 年代半ばまで生産されていた細かいパチパチとした釉薬を使用していた。この技術は今でも発泡釉という釉薬で日本でもそれを使用して作られている方もいる。1957 年からは多くの手描きの装飾を施した作品も発売が、Silberdistelが最もよく知られているのは、1960 年代に製造された厚みのあるFat Lavaの見事な品揃えだ。

色とゴツゴツした表面、形のバランスが最高

また、底に緑色の粘着フェルトが貼り付けられた花瓶もある。

これらの作品に対するこだわりや大規模に打ち出せたタイミングもあくまで小さな規模でこだわり抜いたところはOttoとの類似点が多く、親近感が湧くと共に応援したくなる。それと同時にそれでもSilberdistelがそのままの形で存続が難しかったというのを見ると、息子が事業を受け継ぎ現存しているOttoはまさにドイツの陶器における1つの奇跡の様に感じられる。

僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。

皆様も、良い一日を。

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