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眩しさの先で−−藤本和子『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』

昼間学部と夜間学部をあわせて千を超す新入生と新歓の呼び込みをする「先輩」たちでごったがえした二〇〇五年四月の文学部キャンパスで、きっとわたしは冷静さを失っていたにちがいない。大教室でおこなわれる講義にくわえて選んだ少人数制の必須選択の授業は、現代アメリカ小説を翻訳で読むという奇妙に宙ぶらりんな英文科の演習科目だった。学術においても表現においてもいわゆる専門性や専門ジャンルを追求する確固とした姿勢に憧れと畏れをいだきながら、その縁をぐるぐるまわっているだけの中途半端をモットーとする厄介な習慣の惰性は、この頃からぐずぐずと、だからよけいに根深く、わたしの身体に棲みついてしまっているようだ。

ポール・オースター『ムーン・パレス』、チャールズ・ブコウスキー『パルプ』、レベッカ・ブラウン『体の贈り物』、ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』、スティーヴン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』、スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』、アート・スピーゲルマン『マウス』、リチャード・ブローディガン『西瓜糖の日々』。十五年前に一年かけて読んだこれらの作品は、いまでは現代アメリカ文学の古典とも呼びうる質と格をそなえている。そんな名作揃いの作品のなかでとりわけ印象にのこったのは、ブローディガンの『西瓜糖の日々』だった。

あらゆるものが西瓜糖でできた「アイデス(iDEATH)」というコミューン、アイデスに隣り合う血なまぐさく暴力的な「忘れられた世界」、ある日食事の途中で虎に食い殺された主人公の両親、自殺したかつての恋人。読み終えたあと、詩的で、幻想的で、あまりに純度の高い透明さと静けさに胸が苦しくなり、ひどく悲しい気持ちになったことを覚えている。たしかその訳文には女性をあらわす代名詞の英単語に「彼女」ではなく「かの女」という訳語があてられていた。「かの女」とうつしかえられることによって三人称女性形の代名詞は、代わりのいない固有名のような響きをえて、作品全体にとりかえしのつかない不在の感覚を鳴らしているように感じられた。訳者は藤本和子だった。

とりかえしのつかない不在の感覚。『西瓜糖の日々』とその訳文に感じたのに近しいものをわたしは、三十六年ぶりに再刊された藤本和子の主著『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』に感じたのかもしれない。本書は、一九七〇年代後半から八〇年代はじめにかけて当時アメリカに住んでいた藤本和子がアメリカ南部を中心に四十人以上の黒人女性と出会い、話を聞き、聞いた話を精選し、まとめたものである。そこでは六〇年代の公民権運動をひとつのピークに、それ以前と以後にアメリカで、黒人で、女性であることの意味が語られている。

アメリカで、黒人で、女性であること。端的にそれは、抑圧されることであり、差別を受けることであり、貧困を生きることであり、多くの場合、男からの暴力に晒されることである。概観としてみれば、彼女たちの生は悲惨きわまりない。しかし、藤本和子は、過酷と呼ぶほかない彼女たちの生の細部を綿々と語りながら、同時に、彼女たちに「アメリカの狂気」を生きのびさせた力こそをこちらに伝えてよこす。このとき、彼女たち一人ひとりの生はにわかに活気を帯び、「わたしたち」のまなざしが、それが善意からであるとか悪意からであるとかにかかわりなく、彼女たちを抑圧された者として見つめようとする際に無意識のうちに孕ませてきた好奇な視線の紋切り型を、あかるく、爽快に、見事なまでに拒絶する。それどころか、その溌剌とした身振りを、当事者である彼女たち自身にも向ける。わたしは本書の美点をそこに感じた。

 欺瞞的なものなのね。特殊なタイプの人種差別主義だけれど、他国へそれを輸出することにも成功してきてる。よその国からやってくる人びとはこの社会が黒人から奪い取ってきたものを見て戦慄するし、黒人の無力に衝撃を受ける。でも、もっとも戦慄すべき側面は、わたしたちがこの社会の主流文化の側に横すべりして移動した時にぽっかりと口を開けて待っている空隙を見ることだと思う。わたしたちの命を支えてきたもの、つまりそれが文化だけれど、それとの断絶を見るほど恐ろしいことはない。貧しい住宅、不十分な医療……そんなものより恐ろしい。わたしたちを養ってきたもの、わたしたちを生かし続けてきたものとの断絶こそが恐怖なのよ。

藤本和子『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』(岩波現代文庫、2018年)137頁

本書のタイトルの由来となった『塩食う者たち』の作者、トニ・ケイド・バンバーラは、藤本和子が彼女にむけた「あなたにとってアメリカ流の人種偏見、人種差別というものは、どういう特質を持っていると思う?」という問いにたいしてこう答えた。この問いと答えは重い。罠はそこかしこにはりめぐらされている。「アメリカの狂気」を生きのびた女たちでさえ、誰ひとりとしてこの罠から自由ではないのだ。ひとたび自分を自由であると認識してしまえば、たちまち「横すべり」がはじまり、「さまざまな癒着からたがいを救出すること」はかなわなくなってしまうだろう。

癒着の度合いは救い難さを増していく。空隙は深い谷のような断絶へと変わっていく。それは三十六年前に限らない。いま、まさに、このときもそうだ。「わたしたち」の目はそれでもまだ無垢で、無邪気なままなのだろうか。曇りはなにひとつないままなのだろうか。しかし、ひとまず、こんなペシミスティックな問いかけはよしておこう。そもそも藤本和子は、抑圧されてきたひとの生を見つめることの危うさがもっとも露見してしまう場所で、断絶の、谷の底のようなところで生きつづけたそのひとたちの、女たちの、それまで不在とされてきた声を聞き、深い共感とともに語り伝えることをあきらめはしなかったのだから。

本書の最後に登場する、黒人の女たちに「アメリカの狂気」を生きのびさせた力そのもののようなミラーさんの姿が眩しい。公民権運動の時代にはアラバマでキング牧師とともに行進し、その後、長らく「アトランタの公共住宅住民の組織化と生活条件の改善」に携わってきた彼女は、二度目の中耳炎の手術で聴力のほとんどを失っていた。インタビューのあいだ聞こえていない素ぶりを一度も見せなかった彼女は、読唇によって藤本の質問を聞き取っていた。藤本和子が自身の存在を小さく感じた、聞くことと見ることの距離を埋めて等しくしてしまうミラーさんの堂々とした体躯の前では、わたしにはまず、自分の目の曇りを素直に認めて、眼球についた汚れを拭きとってみせる必要があるようだ。それでもきっと彼女たちと同じようには見ることも語ることも叶わないだろう。しかし、目は、眩しさの先にある細々とした光景を見つめているはずだ。不完全なレンズが写し出す不明瞭な映像をいまここのスクリーンに投影してみる準備と語りの場所を、『塩を食う女たち』はいま、ふたたび、ひらいている。


藤本和子『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』(岩波現代文庫、2018年)

初出:2020年2月

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