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人間模様から読み解く 新たなショパン像 ⑩ 夢の王国の住人


エピローグ 夢の王国の住人


 ショパンが新天地に求めたのは自由・平等・博愛の精神のフランスであって、パリのエレガンスや芸術性といったものではなかった。そうした世界は、ポーランド時代から上流階級に溶け込み、洗練されたセンスが身に付いてショパンにとって、慣れ親しんだ自然なものであったから。
 20才過ぎで既に独自の音楽スタイルや方向性が定まっていたショパンが、フランスやパリの音楽界から受けた影響もさほどなく、むしろ異なるジャンル、画家のドラクロワや、詩人のハイネらと、芸術家として互いに共感し合い、深い影響を与え合っていたようだ。

 表現方法は異なれど、革命の精神を内に秘め、闘志と情熱をもって作品を描きつつ、一方では現実を超えた遥かな世界をも見つめ、従来の形式にとらわれず、あふれる想いを形にするという創作の姿勢も共通していた。
 繊細で物静かな芸術家どうし、社交上の付き合いや日常のゴタゴタといった雑念を超えた夢の王国の世界にて、静かに黙していても分かり合える特別な存在であった。



 豊かな色彩感覚と確かな構図、動きのある描写力によるドラマティックな表現が特徴の、ロマン主義を代表する画家。
 史実や文学作品の一場面などをテーマに、異なるタイプのモデルを試しつつ、様々な構図を練り、鉛筆、パステル、油彩といった多彩な画材によるデッサンを繰り返し、入念な下準備を重ねた上で、本番は早描きで一気に仕上げることで、躍動感や生命力、エネルギーが作品に満ちあふれていくのだった。

 1830年の7月革命を題材にした絵画「民衆を率いる自由の女神」は、フランスにおける革命精神の象徴ともみなされる、彼の代表的作品である。


民衆を導く自由の女神


 ショパンとドラクロワは精神的に深く理解し合える仲で、音楽や絵画、芸術全般に関しての様々な意見を素直に語らうことができた。互いの作品に言及した文章は殆ど残されていないが、才能を認め、尊敬し合い、作品だけでなく、人となりを心から愛し、強い絆で結ばれていた。

「いくら語り合っても、これで終わりということがない。ショパンはとにかく非凡で、生まれてこの方出会った中で、最も芸術家らしい芸術家だ」
 と、ドラクロワは語っている。

 ピアノを買い求めてアトリエに備え、ショパンが弾く様子を幸せそうに眺め、うっとりと聴き入っていたという。

 ドラクロワはジョルジュ・サンドとも親しかった為、親友2人が付き合い始めた頃の仲むつまじい様子を心から微笑ましく思い、カンヴァスに描き留めたのもこの頃である。幸福な時間を永遠に封じ込めておきたかったのか、ドラクロワは生涯その絵を手放すことはなかった。⑦「恋人」のジョルジュ・サンドの項でも記したが、やがては破局を迎えゆくショパンとサンドの運命と同じく、ドラクロワ亡き後、この絵は経済的事情からか分断されてしまうが、各々の肖像画としても大変貴重なものとなっている。

 パリの喧騒から離れて、ジョルジュ・サンドのノアンの別荘で穏やかな夏を過ごすことが恒例であったショパンは、ドラクロワの訪問をいつも心待ちにしていた。




 ドイツ・ロマン派を代表する詩人。
 シューマンの《リーダークライス》や《詩人の恋》など、多くの作曲家がハイネの詩に曲をつけており、その数は三千曲を超える。ロマン派文学だけでなく、ロマン派音楽の世界にも多大な影響を残している。

 鋭い社会批判にて母国ドイツでは弾圧を受け、1831年、ショパンより一足先にパリに亡命していた。
 辛辣な批評家とされ、憧れに満ちた恋の歌にも皮肉や幻滅が混じっているといわれるが、ドイツの奥深き妖しげな森の幻想世界への誘いや、海や嵐の自然描写、恋する者の切なき想いなど、叙情詩、物語詩といったハイネの自由な詩の世界は、ロマン派の極みともいえよう。
 新聞や雑誌に記事を書き、ドイツ・ロマン派文学や音楽、ドイツにおける宗教や哲学をフランスに紹介する一方、ドイツに向けては、フランスの社会情勢や思想、ドラクロワに代表されるロマン主義の絵画といった芸術の分野も伝えていき、両国の思想や文化の橋渡しの役割を果たす。

「最高のピアニストは誰か、ですって? それは間違いなくショパンに決まってますよ!」
 F.リストやタールベルクなどヴィルトゥオーゾ・ピアニストが君臨する音楽界の中で、ショパンただ1人を当時世界最高のピアニストと確信しており、ショパンがピアニストである以上に作曲家であることも、その論評にて高く評価していた。

 ここで、ショパンの崇高な芸術の世界を、最も的確に言いあらわしているハイネの言葉をもって、本編を結ぶとする。

 ポーランドは騎士道精神と悲劇的歴史を、
 フランスは優しげな魅力を、
 自然は彼に 繊細で優美、少々華奢な身体と、
 高貴なる心、そして天賦の才を与えました。
 ですが彼はポーランド人でもフランス人でもない、
 非常に高貴な出身です。
 彼の本当の祖国、それは
 モーツァルト、ラファエロ、ゲーテの国。
 夢の中の、詩の王国なのです。



                  Fine


 

フレデリック・ショパン 略年表

1810. 3.1    ワルシャワ郊外の村で誕生
1817(7才)〈ポロネーズ ト短調〉自費出版
1818(8才) ラジヴィウ公爵の宮殿にて初の公開演奏
1826(16才) ワルシャワ音楽院に入学
1827(17才) 妹エミリア没
         親友ヤン・ビャウォブウォツキ没
1829(19才) 卒業旅行先ウィーンで2度の演奏会
1830(20才) 告別演奏会
         祖国に別れを告げてウィーンへ
         ワルシャワ武装蜂起
1831(21才) ワルシャワ陥落。ドイツ経由でパリへ         デルフィナと親密に?
1832(22才) パリでデビュー演奏会    
1835(25才) ボヘミアの保養地で両親と再会
         ドレスデンのヴォジンスキ家に滞在          喀血。重体説、死亡説が飛び交う   
1836(26才) マリアと(幻の)婚約
         ジョルジュ・サンドと出会う            1837(27才) 婚約消滅                  
1838(28才) サンドとマジョルカ島へ。健康を害す     
1839(29才) ノアンへ。健康回復   
1841(31才) 毎夏のノアン滞在が恒例となる
1842(32才) 恩師ジブニー没
         親友ヤン・マトゥシンスキ没  
1844(34才) 父の訃報に体調が悪化。
         姉ルドヴィカと14年ぶりの再会
1845(35才) サンド家での家庭内不和が表面化          1846(36才) サンドと冷淡に。
         病状は更に悪化、作曲の筆も進まず 
1847(37才) サンドと破局。以降、殆ど作曲をせず
1848(38才) プレイエル・ホールで伝説の演奏会
         2月革命。
         渡英。最悪の健康状態でパリへ戻る
1849(39才) 10.17 永眠




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