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「ハプスブルクの鏡」 ②

「ハプスブルクの鏡」②


1960年 ウィーン郊外 旧貴族の館


── 何もかもが我が身にふりかかる ── 。


「何ですって?」

 祖父に話しかけられた気がしたが、彼は夕方の散歩に出かけて不在だったことを思い出した。ぼくはソファに深く腰掛け、ハプスブルクの遠い過去へと想いを馳せていたのだ。

 広間ではユイがピアノを奏でている。ベートーヴェンのピアノソナタ《悲愴》。今やコンクールを終えた彼女は晴れて好きな曲を、のびのび自由に弾いていた。結果は3位入賞。まずまずの成績ではないか。

 明後日、ユイは日本に帰ってしまう。
 本格的な音楽を学ぶ為に、またいつかウィーンに来るつもりとは言っているが、それがいつになるかなんて当てにならない。その時、また我が家に下宿するのかどうかすらも……。
 願わくばそうして欲しいものだ。女性っ気に乏しい我がハイデンベルク家。両親も祖父も、物静かで繊細にして素直な彼女が気に入って、娘のように可愛がっているものだから。

 ぼくは彼女に惚れている。多分。
 しかしそれが何だというんだ。互いのことなど、何らわかっちゃいないってのに? ただ、ひとつだけ言えること。それは彼女の音楽感が、画家を目指すぼくの感性にぴったりだということ。

 ベートーヴェンの悲愴感漂う第一楽章は、やがて華麗なる展開部を迎えゆく。
 人生の計り知れない深い哀しみの中に差し込む、一瞬のきらめき。暗闇の中で輝く光だからこそ、なおさら美しい。それはあたかも、やがて滅亡への道をたどりゆくハプスブルク帝国の、最後の光芒を思わせる。

 ハプスブルク家の鏡。

 祖父の額縁には元どおり鏡がはめ込まれ、元の場所で威光を放っている。
 おそらくハプスブルク家の様々な人間模様を見つめ続けてきたであろうこの鏡。シェーンブルン宮殿の皇帝の元にあった鏡が、なぜ我が家に届けられる運びとなったのか。祖父は人違いだったはずなのに。何か特別な理由があったに違いない。
 しかし、何が? なぜ、その理由が秘密にされなければならなかったのか。

 鏡よ。ハプスブルクの鏡よ。その秘密を映し出してはくれないものか。

 映っているのは、窓辺で優しくそよぐ中庭の木々の姿。きらめく午後の陽光。
 ユイも好きだと言うハイネの詩集を久しぶりに読み返してみるものの、中々集中できず。本に目を落としても意識は鏡に向いてしまう。鏡を見ないようにしても、鏡に映った木々が揺れ動く度に、何か別な世界が映った気がして……


 二つの優美な白い塔。
 ネオ・ゴシック様式の……、あれはヴォティーフ教会だ。
 若き日の皇帝フランツ・ヨーゼフが、暗殺未遂事件に巻き込まれるも、無傷ですんだ幸運を神に感謝して建てられた。
 そう、皇帝の弟、マクシミリアンの提案で。
 しかしその弟は、教会の完成を見届けることなく、メキシコで革命軍に処刑された。

── 何もかもが、我が身にふりかかる ──。


「え? 何?」

 心の中に響いた声に、ぼくは我に返った。どこからか、声にならない声を聞いたような。
 男の声だった。
 鏡の中のハプスブルクの世界に、ぼくの空想が創り出す世界に、完全に浸りきっていたようだ。

「はい?」ユイがピアノの手を止めた。

「あ、ごめん」彼女の集中を中断させてしまった。
「何でもないんだ。続きを聴かせて」

 磨ぎ澄まされた鋭いタッチ、内に秘められた激しい情熱。ユイはベートーヴェンの似合うピアニストだ。彼女の音楽を聴いていると、心は現実から、遙かな別世界へと誘われる。

 《悲愴》の第二楽章。何度聴いても胸を打たれてしまうメロディー。彼女が弾くと、尚更ではないか。ベートーヴェンの崇高な精神が見事なまでに描き出されて。
 そう。彼女の音楽から生まれ出る素晴らしい世界を、ぼくは絵で表現していくんだ。
 鏡を額縁に見立て、どんな世界が描けそうか想いを馳せる。
 うん? 何故かマネの有名な絵画が……?


 鐘の丘と呼ばれる地で、彼は人生の終焉を迎えようとしていた。ハプスブルクの血を受け継ぐ者として、メキシコの皇帝として、

 堂々と、威厳をもって、処刑に挑む。

「すべての者を許します。わたしの血が、この国に幸福をもたらさんことを」

 狙撃隊員の複数の銃口が向けられる。

── やめろ ──。
 ぼくはつぶやいていた。

 そして号令とともに、一斉射撃。

「やめろ!」

「何!?」ユイがピアノから飛びのいた。
「何なの!? シュテファン!」

 何なの問われても、ぼく自身、わけがわからなかった。いったい何が起きたのか。まるでサイレント映画のワンシーンのようだった。

「わたしのピアノがそんなに嫌なら……!」
 ユイは今にも泣きださんばかり。

「そうじゃないんだ」ぼくは必死で謝った。
「ぼくは彼の銃殺刑を目の当たりにして……」
 自分でも何を言ってるのかわからない。

「シュテファン、あなたおかしいわよ。本当に変」

 怒られたほうがまだまし、というものだ。
 ユイは狂人でも見るような、恐怖と哀れみの目でぼくを見つめ、怯えた様子で続けた。
「鏡が直ってからというもの、ずっと鏡ばかり見て、何かぶつぶつ言ってる」

「ユイ、ごめん」
 ぼくは彼女をソファの反対側の椅子に導いた。
「マクシミリアンのことを思ってたんだ」
「マクシミリアン?」
「遠い異国の地で革命の嵐に散った、フランツ・ヨーゼフの弟」
「メキシコ皇帝になった人ね」
「マネの絵にあるんだ。彼が処刑されゆく有名な作品が。それが見えた気がして」

 ぼくは皇帝の弟の事情をかいつまんでユイに語った。

 マクシミリアンは宮廷きっての美男子で、堅物の兄とは対照的に、明るく魅力的で人気者だった。
 君主としての資質も立派に備えていたという。彼がオーストリア皇帝になっていたら、世の中はもっと変わっていたかも知れない。だが、兄は唯一の息子であるルドルフに跡を継がせたく、弟を常に邪魔者扱いしていた。聡明な弟はそれを察し、ナポレオン3世の甘い言葉に誘われるままに、辺境の地に赴いた。

 しかし結局はフランス軍に見捨てられて、革命軍に捕らえられた。世界中が、彼を救い出そうと革命軍を説得にかかった。革命軍に対して好意的だった、かの文豪ヴィクトル・ユゴーまでが名文による嘆願書を送ったが、効果は得られなかった。

「で、それが何だというの」

「実は、処刑は当日になってから、いきなり二日後に延期されたんだ。何の理由も知らされずにね。受刑者に、いったんは死装束を着せておきながら脱がせ、死の恐怖を無駄に引き伸ばす、という革命の首謀者のお楽しみの為に」

「残酷な仕打ちね。助かるかも知れない、という希望を持たせておきながら。でも、最終的には……」

「二日後、刑は実行された。しかも今度は、執行時刻が予定より二時間も早められた」

「死の覚悟をする間を与えなかったわけね」

「首謀者は人の運命を掌の上で弄んだ。しかしその為に彼は自分の評判を貶め、代わりにマクシミリアンを殉教者に祭り上げる手助けをしてしまったんだ」

「で? シュテファン。とどのつまり、あなたは何が言いたいの?」

 マクシミリアンの気高き精神の話を……。言おうとして、ぼくは気づいた。なぜこんな話を始めたのか?

「その処刑の様子が鏡に見えたから、止めようとした、というわけ?」
 辛抱強く、ユイは続けた。
「あなたは鏡に幻影を見てるだけでしょ。学校で習ったり、本で読んだりした情景を思い浮かべてるだけ。そんなのは現実でも何でもない」

 確かにそうだ。ぼくは鏡に取り憑かれてしまったようだ。ハプスブルクの呪縛に。

 ユイは黙って再びピアノに向かった。彼女との淡い恋は、はかなげに終わりを告げるのだろうか。
 否。あと二日間のチャンスがあるんだ。名誉回復の為に、ぼくは鏡からもユイからも離れ、アトリエにこもることにした。彼女に捧げる素敵な絵を描く為に。アトリエにだって彼女の音は届くのだから。

 さて、何を描こうか。彼女が気に入ったら持ち帰れるよう、キャンバスではなく画用紙に。ウィーンの思い出に、街角の風景? カフェーとか街灯の美しい小路とか? ドナウに佇む愛らしい水鳥、郊外の森の情景。それとも愛の花言葉を託して、花の絵にしようか。パステルトーンの淡い感じ? あるいは燃え立つような情熱の色合いで? 
 それにしても、こんな素晴らしい音楽あふれる中で描けるとは、何と幸せなことだろう。あとはひたすら筆にまかせよう。心に響いた光景を、素直にそのまま描けばいいのさ。

 自称「きまぐれな芸術家」のぼく。ひとたびアトリエにこもると、ちょっとやそっとじゃ出てこないことを家族は知っている。たとえどこぞやの大統領か王様の来客があろうとも。ぼくは久しぶりに食事も取らずに創作に熱中した。

 アトリエに聞こえていたユイのピアノもいつしか止み、気づいたら夜中になっていた。

 満足のいく作品は、いくつか出来た。あとは選択するのみ。
 ぼくは多少の空きっ腹を抱えながら、しょく台を片手にむくんだ足で、しずしずと自室に向かった。しかし階段を上りかけたところで、ある種の誘惑を断ち切れず、そっと大広間への扉に手をかけた。
 時は夜半過ぎ。時を刻む広間の大時計以外、家の者も庭の小鳥も、すべてが静まりかえった世界。ろうそくの灯火に照らし出された鏡には、果たして何が浮かび上がるのか。

 少しばかりの恐怖と、そして期待を込めて、ぼくは一心不乱に鏡を見つめた。しかしいつまで待っても、何も起こらない。やはり意識してはダメなのか。ぼくはがっかりしつつも内心ほっとして、自室のベッドに潜り込んだ。

 疲れきった身体と精神。夢と現実の狭間で、心に響いてくるのは彼女の奏でる《悲愴》第二楽章の清らかなメロディー。その時になってようやく気づいた。

── 音楽か! ──

 鍵は音楽なのだろうか。数日前に割れた時もそうだった。あの鏡は、ピアノの音に反応しているのだろうか。

 そう思い始めると、もはや居ても立ってもいられない。ベッドを抜け出し、忍び足で階段を下り、広間のピアノに直行する。蓋を開け、弱音ペダルを使って、例の第二楽章を。
 もちろんユイほど完璧とは言えないまでも、ぼくだって子どもの頃からずっとピアノを愛してきたんだ。ベートーヴェンのソナタの何曲くらいかは、暗譜でも弾ける。

 由緒あるピアノ、愛しきべーゼンドルファーよ。どうかその美しい響きで応えておくれ。



「ハプスブルクの鏡」③ へ続く……




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