見出し画像

その発信は何のためにやっているのか


今朝、ふとこんな問いが浮かんだ。

自分の商品を買ってもらうため
自分以外の人との交流がしたいから

いろいろな「目的」を持って
みんな発信活動を行っている。

私は?

誰かのために、というよりは
自分のために文章を書いているんだと思う。

時には、娘に向けて
メッセージを送ることもあるけど
不思議なもので
届けようとして書く文章よりも
自分のことを書いた時のほうが
娘に響いたりする。

「今日のお母さんの記事を読んで
元気になれた」と言われるのは
まさに、自分に向けて書いたときだ。


「よく毎日書くことがあるね」って
言われるけれど
それは毎日、何かしらを感じて
それに心が動いて
それを繰り返しているからだ。


昨日の私と、今朝の私は
全然違うことに感情が動いている。

そしてきっと
明日の朝も今とは違う感情を
抱いていると思う。


バラバラに見えて
それは自分という軸で
一つにつながっているから
後で読み返してみると
全部、「私」そのものなんだ。


今の気持ちを忘れないように
記録している。

何かの役に立つとか
これをして何になるか、よりも
この瞬間の自分を残しておこうと
思っているだけだ。


それをずっと続けると
新しい発見があったり
今まで思いつかなかったことを
始めてみたくなったり
そういう小さな変化が起きてくる。

全部、自分の中から
ふとした瞬間に降りてくる。

ずっと前には
今できることの中から
見つけようとしていた。

ものを作ることが好きだから
ハンドメイド作家になろうとか

文章を書くことが好きだから
ブロガーになろうとか

でも
何かになるためじゃなく
これになると決めることでもなく
ただ「好きだから」で続けていくと
そんな枠を作らなくてもいいことが
わかってきた。

一つに絞って
自分をその中に閉じ込めなくてもいい。

昨日、母にお弁当を届けた時
ハッとした。

おにぎりとおかずを入れた巾着袋を
ここ数日、見ていた母が
「みんな素敵だね、こんなものを作っていたんだね」って
褒めてくれた。

腰痛のために
整骨院に通い続ける母の明るい表情を見て
なんてことない巾着袋がすごく頼もしく見えた。

これは、娘たちのお弁当を入れるために
私がずっと作ってきたものだ。

誰に売るためでもなく
ただ「好き」のテイストを詰め込んで
作り続けたもの。

実は娘のために、じゃなかった。
完成したお弁当を
自分のお気に入りの巾着に入れる瞬間が
何よりも「嬉しい」気分になれる。
自分を楽しませるためにだった。


自分が当たり前に
日常で楽しんできたことが
他の人の目には素敵に映ることがあるんだ。

誰かのために
何かしようとすることより
自分が楽しむことに意識を向ける。

自分が楽しんでいる空気が
特別な「何か」をわざわざしなくても
他の人に伝染して
ちょっとほっこりしたり
癒されたりすることに
つながるのかもしれない。


苦手なことを克服しようと
頑張るよりも
何かにならなければと
苦しいことに挑戦するよりも
呼吸をするように
自然にできることで
それを楽しみながら続けることのほうが
パワフルさが増していく。

そこに蓄積されたエネルギーは
自分の想像を超えて
無限に広がっていくんだと思う。

まだ薄暗い朝に
こんなことを思いましたというお話です。

これも私の発見の記録として
残しておきます。

おしまい


暮らしの雑貨を創作しています。
良かったらご覧ください。




よろしければサポートお願いいたします。 頂いたサポートは、創作活動のための書籍、資材の購入に 使わせていただきます。