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不協和音が心地良くなる日まで

母の日、父の日がマーケティング戦略で、、、とかいう話は今回は置いておいて。

家族とはこうであるべき、を押し付けているようでどうも悶々としてしまう日でもある。もちろん多くの家庭では微笑ましい日なんだろうけれど。

その微笑ましさが、無いことにされた家族間不和の上に成り立っている事に、グロテスクさを感じてしまう。

排除アートなるものがある。寝転ぶ事ができないベンチ、入れない広場、、、、バレバレなのに、そんな事知らないよとアート作品のフリをしてホームレス避けとなったアレである。

なかなかのセンスをしておる。

毒親育ち、虐待サバイバー、片親、いろんな人がいて、想像も絶するものを背負ってきたんだと思う。この日は本当にしんどいだろう。

思えば、高度経済成長期から平成までの息苦しさは、大多数に合わせるべき、合わせられない者は欠陥品である、という決して表には出さないまでも無意識に社会を覆っていた薄い膜のような圧力だった。それにあがなうような事件もいくつか起きた。

普通の呪い。

豊かな社会は中流層がどのくらいいるかによるという。一億総中流の名のもとに信じられないような飛躍もした。したけれども、その影ではたくさんのマイノリティ層が切り捨てられてきた。普通になれなかった人はことごとく否定されてきた。

そういえばそれってどうなの。

世の中は少しずつ多様性を受け入れるようになった。願わくば普通の呪縛となるこの日も、別な型を持って着地して欲しい。

ニューノーマル。確かによく聞く。

新しい普通。

この言葉が呪いではなく、全てを受け入れ全てに慈悲を与える言葉になればと思う。

★noteにまとまる前の思考のかけらはTwitterにあります。


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