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オケ書きから見た、オケ畑とシンセ畑の音楽の思考&アプローチの違い【DTM】

DTMer同士の中で、シンセサイザーでEDM等のシンセ音楽を作っているシンセ畑の人が「オーケストラの作り方分からない」「オケムズい」と言っていたり、逆にオーケストラ畑の人が「シンセ分からん」「シンセムズい」と言っていたりするのは、DTMの世界ではしょっちゅう見られる(?)光景です。私もオケ畑の人間なので、後者の人間です。

そんなオケ畑の私は近頃、自分の表現力の限界や、音楽創作に対する“飽き”を部分的に感じつつありました。そこで表現の可能性を広げ、自分の創作・表現に新しい風を入れるべく、シンセ畑の音楽に手を出してみることにしました。すると、オケ畑から見たシンセ畑という視点で、様々な新しい気付きが多数あったのです。

つまるところ、「シンセ畑」の人と、「オケ畑」の人とでは、部分的に共通する部分もあれど、音楽を作るときの発想の仕方や思想、頭のシステムが異なっています。そして、「オケ畑」と「シンセ畑」の間には、お互いの畑が分かり合うことの難しい「音屋の壁」が立ちはだかっています。このこと自体は、多くの音屋の各々が「オケ分からん」「シンセ分からん」と言い合っていることによってなんとなく実感していることだと思いますが、今回はそのシンセ畑の人とオケ畑の人との、「音楽に対するアプローチの違い」について、どのように違うのか、オケ畑の人間の視点から思ったことを文章に書き起こしてみます。

固定された楽器編成・プリセットの縛り

この記事の読者の中には、

「俺シンセ畑だけどオケ畑の人間の頭どうなってんの?」

と思ってらっしゃる方もいらっしゃると思うので、オケ畑の前提やオケ畑が当たり前に考えていることも説明しながらお話ししていきます。

まず、伝統的で古典的でクラシカルなオーケストラというのはある程度楽器編成が決まっています

標準的な二管編成だと、

フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴットが各2本ずつ(木管楽器)、ホルン4本、トランペット2~3本、トロンボーン3本、テューバ1本(金管楽器)、ティンパニを含む数名の打楽器、第一ヴァイオリン・第二ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスから成る弦楽五部

で構成されます。これ以外のバリエーションも存在しますが、上記のものが基本形と言って差し支えありません。

オケを専門的に書いている人からすると、あまりにも当たり前すぎて話にも上がってこないような当たり前の話ですが、伝統的なオーケストラのサウンドを作る際に、まず伝統的な編成・楽器を整えておくことは重要です。たとえばフルートのパートの音色が、オーケストラで用いる「コンサートフルート」でなく「パンフルート(パンパイプ)」だったらおかしいですよね。オケ畑の人からすると。そういうことです。

ここで、

「えっなんでコンサートフルート限定なん?別にパンフルートにする自由はあるしパンフルートにしてもそれはそれで面白そうじゃね?」

と思った人は、シンセ畑寄りの発想の人だと思います。(あるいはものすごく頭のやわらか~~~~いオケ書きか)

もう一つ、ここで重要なのが、オケ畑の人からするとこの「楽器編成が決まっている」ということはごく当たり前のことですが、これはシンセ畑の人の音楽的発想で考えると、「予め音色のプリセットが用意されていて、しかも原則そのプリセットの音色から変更を加えることは出来ない」と言い換えられることです。プリセット、つまり自分の音色の手札が最初から固定されているという時点でシンセ畑の人は少々堅苦しさを覚えるかもしれません。オケ畑の人にとっては、編成が決まっている上でそこから自分の個性を出すために何をするかを考えるのですが、シンセで自分で音色を作って自分の個性を出そうとしているシンセ畑の人にとっては、これはかなり大きな縛りであると感じるのではないでしょうか。

管弦楽法という「戒律」

次に、オーケストラの音楽を作る時は「管弦楽法(オーケストレーション)」という概念がついてきます。管弦楽法について書かれた本には、

「この楽器の音域は、○○音から△△音まで」

とか、

「この楽器は、~~~のような使い方が有効である」

とか、

「この楽器は物理的な制約により、~~~のような用法は演奏が困難なので避けるべきである」

といったことが書いてあります。分かりやすく言うと、これらは「戒律」のようなものです。(この呼び方はこの記事を書いてる今この瞬間に考えました。ちょっと宗教的で固いニュアンスになっちゃいましたけど。)

管弦楽法になぜ「戒律」が存在するかというと、それは言わずもがな、生演奏を考慮した際、現実に存在する楽器と生身の演奏者を相手にするからです。

「このあたりの音域は演奏に体力を使うので演奏させ続けるのはしんどい」
「このような音符は演奏が困難なので要求すべきではない」

といった、生の楽器であること、人間が演奏することに起因する制約が各楽器にあります。昨今のオーケストラ音源で、たとえばトランペットのサンプルが全音域に渡って無限に収録されているわけではないですよね。この音域の例だけを見ても、実際の楽器と人間の演奏にはそういった物理的・技術的な制約が伴うことは想像に難くないでしょう。(ときにはその制約・「戒律」を破ることに芸術的・演出的意義がある場合もありますが、守破離の考えからすると初学者にはオススメできません)

オケ畑の人で、何かしら本を読んだりクラシックのオーケストラスコアを読んだりして管弦楽法を勉強した人は、その人の勉強量によって左右されますが、多かれ少なかれこれらの「戒律」に(良い意味で)縛られています。そしてその「戒律」の縛りがある中で、自分の個性をオーケストラで表現しようと努めています。「戒律」によってその人の音楽表現が生かされている、とも言えるでしょう。

「戒律」に縛られる者と縛られない者

シンセ畑の人にとって、管弦楽法の「戒律」は音楽表現の自由性を損なわせるものだと思うかもしれませんが、むしろオケ畑にとっては、「戒律」というある程度の決まったルールがあり、それによって目指されるべき理想的な答えがある程度定まっているからこそオーケストラが書ける、と言っても過言ではありません。たとえば、

フルートの低音域は音量に乏しいが、他の楽器のサウンドでは代替し得ない独特の魅力があるので、その可能性を深く探求すべきである。

なんてことも管弦楽法の本には書いてあるので、こういう小ネタをたくさん持っているほどオーケストラの表現の引き出しもどんどん増やしていくことができるわけです。また、より個性的・より芸術的・より革新的な表現を求めるために、「戒律」という縛りや枠組みがある中で、未だかつて誰も試していない新しい表現にどれだけ挑戦するか、その方法を探ることもあります。

その反面シンセ畑における音楽の作り方では、楽曲を作る際の「戒律」が、オケ畑と比較してほとんど存在しないと言えます。

DTMの場合、シンセ畑における音楽の作り方は、現実に存在する生の楽器や奏者を相手にするわけではありません。作編曲者自らがソフトウェアを立ち上げて電子的な技術でもって音色を作り出し、(ライブ演奏でない限りは)コンピュータで音符の「打ち込み」をして事前に演奏内容をプログラミングしておくでしょう。そこに、

「トランペット奏者にいちばん高い音のロングトーンを100小節連続で要求すると死ぬからそういうのを書くのはやめとけ」

というような制約はないはずです。

また別の観点ではシンセにもコンピュータの処理能力の問題だとか、同時発音数の問題といった技術的制約がないでもないですが、

「調弦を変えない限り、ヴァイオリンの最低音Gより下の音は絶対に鳴り得ない」

というほどの強い縛りではなく、現代の技術だとそのようなケースに遭遇してもなんらかの解決策があるか、そもそもそのような技術的問題の壁にぶち当たるケースがごく稀だと思います。

こういったオケ畑とシンセ畑の音楽の環境の違いから、オケの場合は(元来)楽器と奏者が存在し、そこには物理的制約・人間の技術的制約による縛りを無視することが出来ない一方で、シンセの場合はそういった制約による縛りが存在しないに等しいと言えます。

つまりこれは、「オケ畑の人は縛りのある状態が楽曲制作のスタート」であり、「シンセ畑の人は縛りのない状態がスタート」という大きな違いがあるということになります。先の固定された楽器編成の話とこの「戒律」の話を合わせて、シンセ畑とオケ畑との間には、「縛りがあると曲が書けない者」と「縛りがあるからこそ目標に向かって曲が書ける者」という対極する違いが存在するのです。

もちろんシンセ畑でも、こういうジャンルで書きたいからこの構成にする必要があるとか、このジャンルの流行りの音色に寄せたいとか、この音色のこういう使い方がカッコいいとか、この手の音色は常識的に考えてこういうニュアンスで活躍させるでしょとか、そういった好みや音楽的趣向の違いはあると思いますが、それは「戒律」の有無とか違いとかいうより「音楽的宗派」の違いと言うべきでしょうか。この「音楽的宗派」は無論オケ畑にも同様に存在し、宗派によって管弦楽法の考え方も微妙に変わってくるので、結果的に宗派によって戒律にも細かな変化が生じます。

「トランペットの高音は輝かしく素晴らしい」

という戒律を提唱する管弦楽法もいれば、

「トランペットは中低音こそ魅力的であり、高音に偏って使用するのは愚策である」

という相反する戒律を提唱する管弦楽法も、その両方もあるのです。

特に純粋なオケ畑で育ってきた人ほど、楽典にせよ記譜法にせよ和声法にせよ管弦楽法にせよ楽式論にせよ、何かしらアカデミックな学習を通して音楽を学んできた傾向が強いので、「何から始めるべきなのか」「第一歩にどういう音符を書いたらいいのか」という何らかの手引きが初学者向けに用意されていたり、過去の偉大な作曲家が遺したスコアを読んでそれをリファレンスにしたり、そういったことが出来るのが当たり前の状態で音楽の道を歩み始めた人が多いんですね。オケ畑の人はそれ故に、いきなりシンセ畑に移動してきてシンセの畑を耕そうとすると、最初の時点で

「あなたは何を作っても自由です!どんな作物を育てるかも自由です!最低限の器具類と取説は用意してあります!さあ後は思う存分思うままに自分が作りたい音楽を表現していきましょう!!」

と言われてしまい何をしていいか分からず路頭に迷ってしまいます。

よく和声法について、

「和声はよく分かんない上に禁則禁則うるさくてダルい。何で禁則なのかよく分かんない。やはり音楽は理論より感性の方が大事だ」

という、「音楽は理論か?感性か?」的な感じの話を定期的に聞くんですが、専ら日本式の和声法の勉強法も実は先述したような、「最初に縛りと限定的な手引きを与えておいて、学習進度と共に出来ることを増やしていく」という形で進んでいくので、オケ畑的な思考で学習しやすいようになってるんですよね(むしろ音楽のアカデミックな環境がオケ畑の思考回路を作ってきた)。伝聞ですが、欧州の和声法の勉強法だと、

「最初からあれも出来てこれも出来るぞ……さあやってみろ!(一件自由をちらつかせつつ“西洋音楽における常識の空気”を読ませようとする)」

って感じという噂なので、キリスト教音楽の文化に馴染みがない日本人には逆に学習しづらいだとか。感覚派と理論派の論争も元はと言えば、オケ畑とシンセ畑のような、こういった音楽に対する頭の考え方の違いなのでしょう。

今のところ大きく分けて以上2点、楽器(≒音色)の自由性や、戒律の有無による自由性が、オケ畑とシンセ畑の畑の明確な土壌の違いとして挙げられます。しかし、オケ畑=理論派、シンセ畑=感覚派、という等式が必ずしも成り立つのでしょうか? 音楽の世界はそのように言えるほど単純明快ではありません。ここからが長くなるのですが、オケ畑とシンセ畑の土壌を掘り下げつつ、音楽はどのように作られどのように聴いていくのか、私自身が体験した例も交えてお話ししていきます。

狭義のオーケストラと広義のオーケストラ

「オーケストラ」という言葉ですが、一言に「オーケストラ」と言っても人によって「オーケストラ」が指す音楽のニュアンスは微妙に異なります。この記事内限定の概念ですが、巷の人々が言う「オーケストラ」は、主に楽器編成を基準「狭義のオーケストラ」「広義のオーケストラ」に分けて考えることが出来ます。

まず「狭義のオーケストラ」とは、伝統的・古典的なスタイルであるクラシカルな編成のオーケストラのものを想定してもらえれば幸いです。具体例としては、先程挙げた「二管編成のオーケストラ」がそうです。

一方「広義のオーケストラ」は、伝統的・古典的・クラシカルなオーケストラの編成に縛られていないオーケストラ、と考えてもらえれば分かりやすいと思います。基本はオーケストラの響きだけれど、ストリングスと金管楽器に加えて、ドラムスやギターやベース、そのほか通常のオーケストラでは聴き慣れない編入楽器の音も鳴っている、といったものです。芸術音楽よりも商業音楽の方でよく起用され、歌手の後ろで生のオケが演奏してくれるタイプの歌謡曲のコンサートとか、今日では、映像の付随音楽・映画の劇伴・サウンドトラックや、ゲーム音楽などで頻繁に耳にするものです。また現代音楽(前衛音楽)の文脈では、尺八協奏曲など、オーケストラで用いられない楽器やヨーロッパ以外の楽器をソロ楽器として起用したコンチェルトなどがありますね。他にも20世紀のアメリカ音楽だと、ジャズバンドのことをオーケストラと呼ぶこともあります。

余談ですが、「『オーケストラ』と銘打ってるのでオケを期待して聴いてみたら期待した感じのオケじゃなかった!」という悲しいことが時たま人によって起きてしまうのは、この「狭義のオケ」「広義のオケ」の認知の違い・文脈の違いを起因とするものが多いです。この問題を解決したいけどどう解決すればいいのかは私は知りません。偉い人誰か考えてください。

立ちはだかる「音屋の壁」

「狭義のオーケストラ」と「広義のオーケストラ」の説明を経た上で話を戻します。オケ畑の中で、純度の高いオケを勉強し、純度の高いオケを作ってきた人は言わば「狭義のオーケストラ」に生きる者ですが、この「狭義のオーケストラ」に生きる者が、オーケストラの新しい表現を開拓しようとして「広義のオーケストラ」へと表現の世界を広げていくと、次第に「オケ畑」と「シンセ畑」の間に立ちはだかるお互いが分かり合うことのできない「音屋の壁」に近付いていくことになります。また逆に、非常にレアケースだと思いますが、シンセ畑の人が突然「今度君の曲を生オケで演奏するから楽譜書いてよ」って依頼されるようなことがあると、その人はこの「音屋の壁」にいきなり盛大にぶつかります。

私自身の経験と歩みの話になりますが、もともと私は「狭義のオーケストラ」を作る側出身の人間だったので、先程記した「戒律」や「縛り」が存在するのがデフォルトの環境で曲を作ってきていました。

しかし経験を重ねて次第に新しい表現に挑戦しようとすると、「狭義のオーケストラ」から「広義のオーケストラ」へ創作の視野を自分なりに広げていくようになります。例えば、箏を弾くキャラクターをイメージした曲を作るので、背景のサウンドはオーケストラだけれど、独奏のようなポジションで箏を取り入れようとしたり、和風の世界観なのでオーケストラに三味線や和太鼓を混ぜてみたり、ロックなリズム感を出すために、ドラムス・エレキギター・エレキベースを編成に組み込んでみたり……、といったことです。

こういった、箏や三味線、ドラムス・エレキギター・エレキベースといった非ヨーロッパの楽器や新しい楽器については古典的な管弦楽法の本には記述されていないので、これらの楽器を取り入れることを前提とした管弦楽法を学習することは出来ません。しかしこれらの楽器は実在する楽器であり人間が実際に演奏する楽器ですから、その楽器の音域や得意とする奏法、効果的な演奏法など、調べればある程度独学で分かります。それをオーケストラの中で活躍させようと考えれば、たとえ管弦楽法の本にそのような記述がなくとも、古典的な管弦楽法の知識と経験を活かして新しい表現を自分なりに挑戦して生み出すことが可能です。私はそのようにして「狭義のオーケストラ」から「広義のオーケストラ」へと表現の幅を自分なりに少しずつ開拓していきました。

この時点までは、「この楽器といえばこういう音色」という、「ある程度の固有の音色を持つ楽器」を扱ってきていたので、たとえ古典的な管弦楽法の本に記載されていないような楽器でも、

「○○という楽器はこういう音を出すのでこういう使い方が出来る」

という考えのもとで、自分の管弦楽法をアップデートしていくことが出来たのです。

しかし、「広義のオーケストラ」の編成の可能性を拡張していくと、やがて「シンセサイザー」という存在を無視せずにはいられなくなり、やがて「音屋の壁」にぶつかります。

オケ屋にとってのシンセの取っ付きにくさ

シンセサイザーは、元来シンセサイザーという機械そのもの、もしくはそれ相応の音源モジュールそのものが楽器という扱いですが、「シンセサイザー」という「楽器固有の音色のイメージ」が一般論として存在するわけではありません。オケ畑出身の私にとっては、シンセサイザーという楽器の最大の魅力であるはずの、この「楽器固有の音色のイメージが存在しない」という一点が、シンセサイザーという楽器に対して親しみを覚えにくくさせていた要因であり、最も苦手な要素だったのです。まるで、学校の同じクラスに「シンセサイザーさん」という生徒がいるけれど、会う度に顔のメイクも化粧も髪色も髪型も目の色もファッションもメガネも声も、さらには性別さえも毎回変わっているし、なんなら出席してるクラスも学年も日替わりで違う、正体不明、みたいな感じです。

とはいっても、シンセに対する苦手意識があれども、映画・アニメの劇伴やゲームのサントラなどを聴いていると、

「このシンセのサウンドを聴くことによって得られる独特の感覚は、シンセ以外の楽器や管弦楽法の技術で代替することはできないな」

と思う機会がこんにちでは増えるようになってきたので、そろそろシンセにも手を出すべきか……と、私はそれまでの重い腰を上げたのです。これは私の趣味ですが、かねてより一昔前の音楽のシンセの使い方に妙なノスタルジックな感触を覚えていたというのもあって、シンセの使い方の模索にあたっては、今風のEDM等の音楽でなく少し古いものをリファレンスにしていました。

純粋なオケ畑の人がシンセを触ることで最初に戸惑うのはズバリ、音色が作れないことです。何故なら、ここまで読んできた人はもう察しが付くかと思いますが、純度の高いオケ書きは「狭義のオーケストラ」における固定された編成「二管編成」など、予め音色のプリセットがある環境下でずっと曲を作ってきたので、そのプリセットから外れる音をイメージできないのです。もっと言うと、この世に実在する楽器の音、人間が演奏している音しか聴いていないので、この世に存在しない架空の音を知りません。(ゲーム音楽等で流れてくることはあるので全く聴いたことはないってことは少ないと思うんですが、知らない楽器に対して耳が反応しないというバグを抱えています。)

(……てか、シンセでこの世に既に存在している既存の楽器の音色の模倣じゃなくて、シンセでしか表現し得ない全く新しい音色を最初に創造できた人って、純粋にすごくね?)

またシンセで作られた曲を聴いて、

「このシンセの音色良いな!自分の曲でも再現したい!」

と思っても、シンセの音色が作れない&シンセの音色に対する知識が少ない故に、その音色を再現するという最初のステップでつまずいてしまいます。

一方これは音屋の壁の向こう側でも似たようなことが起こり得ます。シンセ畑の人がオケの曲を聴いたとき、オーケストラの楽器と音色に対する知識が少ないために、

「漠然とオーケストラの壮大なサウンドであることは分かるけど、このソロの楽器がなんの楽器か分かんない……」

という、上記の「オケ畑の人のシンセ畑に対する理解の及ばなさ」と逆の現象が起きます。

シンセ畑の発想の採用による新たな気付き

オケ畑の私は、オシレーターを立ち上げて、基本となる波形、正弦波・三角波・矩形波・ノコギリ波を選んで、それらを組み合わせて……、といった基本的なところから自分で音色を作るということが出来ませんでした。しかし、ゼロから音色を作るというセンスは皆無でも、アタックタイム・リリースタイムなど音色のエンベロープをいじったり、モジュレーション効果を入れて時間と共に音を変調させたり、あるいはイコライザーやディレイ等のエフェクトを使って音の質感や響きをガッツリ変えてみたり……、といった遊び心を入れることは、今までの打ち込みやミキシングの技術の応用で気軽に実践することが出来ます。

これに気付いた私は、そういった切り口から新しい表現を探ってみることにしました。中でも、ある音色とある音色を同時に鳴らしてまた新しい音色を表現するという手段は、オケ畑の管弦楽法の概念でも日常的に行っていることであり、ヴァイオリン×フルートの組み合わせとヴァイオリン×オーボエの組み合わせとでは音の質感は異なるといった経験から同じ応用が効きます。またもうひとつ面白いなと思ったのは、シンセ畑の人からすると常套的なテクニックかもしれませんがディレイの効果です。4分の4拍子の小節で1拍目だけ16分音符を4つ並べておいて、4分音符1個分の時間差を生ずるディレイをかけると、音符は4つ・1拍分しか入力していないのに実際には音符が16個以上・4拍以上鳴ってるしかも機械的なデクレッシェンド付き……といった、予め機械の面白さを知っていないと生み出せないような音楽表現があること、また音符をたくさん打ち込まなくても面白く聴こえさせる技術があります。勿論オケ畑でもそういう表現の方法はあるのですが、「音符を4つだけ打ち込んでも実際には16個以上連続して鳴らせる技法がある」という考え方はオケ畑的には盲点でしたね。

このように、General MIDIのトーンマップでいう81番から104番までの音(要するにシンセ系のプリセット)とか、手持ちの音源にある音色でトーン名が"Dreaming Box"とか抽象的な名前でよく分かんない謎の音色とかに手を出しつつ、興味の赴くままにエンベロープやエフェクトなどを弄ってみたりと、出来る範囲で音色の探検を始めてみました。このような発想で打ち込みを初めていくと、たとえ今までと同じDAWの画面でも、かつてのオケ畑的な発想で曲を作ってきた時とは見える景色が変わってくることに気が付きます。

戒律からの解放

オケ畑的な発想からシンセ畑的な発想に転換してみて曲作りの考え方が大きく異なるのは、「戒律」からの解放です。現実世界に実在する特定の楽器というプリセットの常識がそもそも取っ払われるので、楽器の音域がどうのとか、この楽器は速いタンギングが得意でないとか、そういう縛りを一切キにしなくて済みます。つまり今まで縛られていたことを自由に出来るようになるわけですが、裏を返せば、今まで「戒律」に縛られていた間はどんな表現をすることが出来なかったのかという、「今までオケの畑で育てられなかった作物とはどのような作物なのか」について視点を向ける必要性が出てくるわけです。新しい表現をするために今まで縛られていたことを思い切ってやる勇気や挑戦心、そしてそれを実行したらどんな効果が現れるのかと思う広い好奇心などが必要とも言えますね。

グランドピアノの最低音(A0)をフォルティッシモ(ff)で鳴らせるフルートとフルート奏者なんてこの世に存在しない、と私は思いますが、極端な例えですがシンセ畑的な発想で曲作りをすると、こういうアイデアを活かすことも出来ます。私の知る限り、常識的には、グランドピアノの最低音(A0)自体そもそもグランドピアノでしか鳴らし得ないものだと思いますが(バストロンボーンならダブルロータリーを駆使してめちゃくちゃ頑張ったら辛うじて鳴らせるかな?)、シンセの世界だとグランドピアノ以外の音色でもA0の音を出すことが出来る訳ですね。まあそれが実用的なのかどうかはさておき、これが一体どういう演出のポテンシャルを持つかと言うと、

「シンセサイザーで作り出せる音色は、現実世界に実在する生の楽器とは異なるサウンドを意図して生み出すことが出来る」

ということになります。プリセットが予め決まっているオケ畑からすると、この点はシンセ畑の最も大きな魅力です。戒律から解放され、生の楽器の物理的な制約から解放されると、現実世界に存在する既存の楽器の常識をぶち壊すことが出来ます。まあ問題はそれで魅力的なサウンドを作り出せるかどうかが難しいところですね。シンセ畑の人はその表現に命をかけている人も数多くいらっしゃることでしょう。

ただ、オケ畑とシンセ畑は常識が全く正反対の世界であり、シンセ畑はオケ畑の戒律の全てから解放される……、というわけでもなくて、たとえば「ローインターバルリミット(この音域より下方に和音を積むと音が濁ってしまうので推奨されませんよ)」みたいなのは、聴いてて気持ちのいいシンセミュージックのサウンドを作る上でも同じです。そういった知識や経験はオケ畑・シンセ畑の違いに関係なく共通して活きてきますので、オケ畑における管弦楽法の戒律の全てを裏返したものがシンセ畑の常識とは限りません。

「音符に対する関心」と「音色に対する関心」

次に、このテーマの観点は音楽を考える上で非常に重要です。シンセ畑の音楽では、「自分の曲を聴かせるためにまず音色を作る」というところから始まるので、「音そのもののプログラミング」をする割合が非常に強く、そのため「出てくる音に対する関心」すなわち「音色に対する関心」がとりわけ強いと言えます。「出た音勝負」みたいな感じですね。

私は打ち込みのサウンドで聴かせること前提でオーケストラを作る時は、もちろん「音色に対する関心」を注ぎ、出てくる音や打ち込みのニュアンスにこだわって打ち込みをしていますが、一方で「生演奏するために楽譜が必要」という案件の時は、細かい打ち込みは行わず楽譜からいきなり作業をします(クオリティの高い打ち込み音源も楽譜も両方必要な時は順番に作業します)。後者の楽譜が必要な案件の場合、納期の関係などもありますので「作業中のプレイバックで鳴る音色に対する関心」はそれほど注ぎません。たとえば、

「トランペットにff(フォルティッシモ)を書いているのに、プレイバックのサウンドでは全然トランペットが聴こえてこない。でも実際の現場ではもっと鳴るだろうから楽譜さえこう書いてあればまあいいか」

と済ましてしまうことはよくあります。逆に、

「プレイバックだとめっちゃ鳴ってるけど実際はこんなに鳴らんぞ」

といったことも作業中に起こります。今までの経験をもとに、「こういう音符を書いたら生音ではこういう音になるだろう」というイメージで楽譜を書き進めるので、「(プレイバックの)音色に対する関心」よりも「楽譜に何が書いてあるか」「音符に対する関心」の方が強くなります。

このように、打ち込みのサウンドのために作るのか、それとも楽譜を納品するために作るのかによって、「音色に対する関心」「音符に対する関心」の注ぎ方は変わってきます。オケ畑は音符に対する関心が強くて、シンセ畑は音色に対する関心が強い……と一概に決めつけることは出来ませんが、しかしそもそも、オケ畑の場合はオケという表現の手段を選択した時点である程度編成が決まっている・音色のプリセットが用意されている状態がスタートであり、シンセ畑の場合は音色をゼロから作るもしくは取捨選択する状態がスタートであるという違いからして、どれだけ長い時間「音色に対する関心」を注ぐかはオケ畑とシンセ畑との間で圧倒的に違うことは明らかです。

「このフルートのパートの音なんか気に入らないから別の音源のフルートの音に差し替えてみるか」

ということがオケ畑にはあっても、あくまでそれはフルートというパートなので、フルートという楽器の枠組みから外れることはありません。でもシンセ畑の場合は、

「最初に作った音色をプレイバックすると、予想したのと違っていたので、その音色は一旦ボツにしてまた新たに全く別の音色を作り直す」

ということが起こり得ます。冒頭でチラッとお話した、「フルートのパートをコンサートフルートじゃなくてパンフルートにしてみるか」ぐらいのアイデアがシンセ畑の人にはポンポン思い浮かんでもおかしくないわけです。

「音符」を聴かせるか、「音色」を聴かせるか

以上により、予め編成が決まっていて音色のプリセットが揃っているオケ畑と、編成も決まってないし音色もゼロから作ることを要求されるシンセ畑とでは、何を聴かせたいのか、何を個性としてアピールしたいのかが微妙に変わってくることが分かります。オケ畑だと「楽譜に何が書いてあるか」「どういう音符を楽器に演奏してもらい、お客さんに披露するのか」がオーケストレイター(編曲者)の個性として重要になりますし、シンセ畑だと「どういうサウンドをお客さんに披露するのか」が個性を発揮する上で重要になります。

オケ畑は最初にオーケストラの楽器が用意されていて、各楽器に対して「音符」を書くところからが勝負、それに対してシンセ畑は、もちろん「音符」でも勝負はしますが、シンセサイザーという楽器が出す「音色」を作るところから既に勝負が始まっています。この環境の違いにより、オケ畑とシンセ畑とでは、楽曲制作時の思考の仕方、楽曲制作の時間のかけ方が異なります。つまり、音楽でリスナーをどのように惹きつけるか、そのために講じる手段も変わってくるのです。

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