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「医者」という専門家と代替医療

医療に関わる仕事をしていれば、所謂標準治療とされるものとは異なる選択をする方と出会う。

新しい薬やワクチンへの抵抗感やステロイド外用や抗がん剤への忌避など、その反応は様々で、そのために取られる方法も、民間療法とされる様々な治療が行われている。

家庭医療のバイブルの一つである「TEXTBOOK OF FAMILY MEDICINE」の冒頭に、以下のような一節がある。

もしある専門職が一般大衆の要求を満たさなくなると、社会は要求をかなえる別の方法を探す。必要とあればその専門職以外の集団を頼ることも辞さない。(注:代替医療の拡がりは、医学のいくつかの欠点に対する反応と考えられる)
ーIan R.McWhinney, "マクウィニー家庭医療学 上巻"より

僕が専攻医(当時の言い方だと後期研修医)1年目の4月ごろ、家庭医療に足を踏み入れたばかりの自分が同期と一緒に始めたマクウィニー抄読会で、この一節がものすごく腑に落ちて、マーカーで線を引いていた。

医者になってすぐの頃、効果があるとわかっている治療を選択せずに病院に運ばれてくる患者さんたちが取る選択が理解できず、また医局のような場所での民間療法を行う患者さんへの感情は、必ずしもポジティブなものでないことも多かった。

漫画「ブラックジャックによろしく」で、膵臓がん末期と診断された中年女性がセカンドオピニオンを渡り歩く中で、病院での治療は止めることを決意する。病院の医師にそのことを伝え、気功や食事療法を治療として選択するという話をしたときに、指導医がなんとも言えない哀しい表情をしている描写があって、あれは医療現場のとてもリアルな空気感を表現していると思う。

人は日々無限の選択をして生きていて、どんな選択でもその人の人生の一部であり、医療者が決めつけることはできない。
それでも、医療者の説明や提案する選択が必ずしもその時代のベストなものであり続けられるかといえば、そうでないこともあるだろう。
時代の流れ、地域のリソース、自分の知識や価値観、その日のコンディション、、、様々なものに影響される。
それでも、朝起きてふと疲れているなと思うとき、患者さんの話を聞く自分、ケアに関わる自分が、ベストな状態でいられるのかと日々問いかける。
医者になって8年近くが経っても、落ち込みながら帰路につくこともしばしばだ。

世の中の人が標準治療とされるものを選択するのか、あるいは代替医療の選択を生み出すのか。
どの選択であってもその責任は医療にあるし、医療に関わる一人の人間として、その責任は背負わなけれなならない。

白衣を着ることもある科学者として、あるいは一人の人間として、常に自問自答して、バランスを考え続けること。時には勇気を出して、えいっとどちらかに傾くこと。
そんなこと一つ一つに悩み続けることが、大切なんだと思う。

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