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日記 2月4日 なぜnoteに日記を書くのか?

noteに日記を書き始めて自分について色々と見えてくるものがあった。

文章を書くことで、頭が整理される気がする。
自分の気持ちや、その理由も。
だけど考えて分からないこともある。

なぜ私は note に日記を投稿するようになったのだろうか。
そのきっかけが分からない。

どん底にいた私が見た記事がたまたまnoteにあって、
生き辛さを抱えている人たちが、エッセイや日記、体験したことを発信していて、私も発信すれば何か気付きを得られるかも知れないと思ったからかも知れない。

みんなが心の内を晒していて、だけど誰も否定されていない。
この独特の空気感が心地よいと思うのだろうか。

最初は誰にも読まれなくてもいいと思ってたけど、
「スキ」の数とか意外とモチベーションになっていたりする。

自分の投稿がnote内に表示された回数とか日々増えていくことに、
「あ、見られてるのかな?」と感じる。

他の掲示板とか、サービスでも良かったと思うけど、
なんで note なんだろう。

今、私は自分のことを知り始めている。
だけどこの希死念慮がどういうものか、みんな持っている感情なのか、なぜこんなにも生きることが苦しいのか。
この答えを出すには何かが足りないとも感じている。

人と哲学的なテーマについて話す機会が普通に生きているのないけど、
私はその機会が欲しいと感じる。

感情的に死にたいと思うのではなく、論理的に死について考えられるようになればこの気持ちとも折り合いをつけられる気がする。

そのためには、他の人の胸の内にあるこの気持ちに触れて私が何を思うのか知るしか方法はない気がする。

ツイッターだと、そのときの感情を切り取り言葉にしてしまうから、
論理のブレーキが効かなくて、反応欲しさに自傷行為がエスカレートしたり、
他の人の行為を目にしてそれにひきづられることがあった。

誰が見て、誰がいいねしてとか、自分の価値というか、発言を常に他人と比べてることを意識する仕組みはどうも私には合わなかった。
というより、仕組みを理解していてもなぜか辞められなかった。

強制的にアカウントを消されたので、辞めることができたけど、
こういった機会がなかったら、今も続けていたと思う。

だって、表面的な感情の晒し合いは本当に心地よくて、すごく怖かった。
感情だけだと危険だと身をもって知っている。

匿名で、競争に晒されず、誰からも否定されず、しっかりと感情を発散できる場所を作りたいと思うようになった。

私と話したいと思う人は、コメントして欲しいともう。

決して否定はしない。
受け入れも、依存もしない。
共感もしない。

だけど、優しく受け止めたいと思う。

心の動きや精神世界を知るために貴方のお気持ちを使わせていただきます! 私にはやりたいことがまだまだあります。 いただいたサポートは大切に使わせていただきます。