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装うことと自己①(性別について)

#自分にとって大切なこと

はしがき

 あとちょっとで、noteを始めて一年が経過したことになる。このことに気づいたのは前回の記事を投稿した後のことだ。春が近づくと何かを書きたくなるものなのかもしれない。

 書くことと言えば、楽しいが苦しい。そうせずに生きられるならばそうすべきなのだとは思うが、わたしは一人でも二人でも誰かがわたしの書いたもの、描いたものを見てくれる可能性があるならば投稿することを辞められない。破滅型の文豪に憧れているからかもしれない。

 さて、今回のテーマは「装うこと」である。ファッションや流行り廃り(実はこの二つは原義から言えば同じものを指す)にはそこまで詳しいほうではないが、装うことに関してならわたしは語るべき言葉を持っている、書くべきことがあるはずだと思った。

装うことと性別

 まず、前提として私は自分を一応シスジェンダー女性であると認識している。軽く説明すると、シスジェンダーとは心の性別と体の性別が一致していることを意味する。シスの対義語はトランスである。これは化合物の形についての用語にも使われる接頭辞なので、理系なら知ってるのかなと思う。

 とは言え、anone,というセクシュアリティ分析サイト(https://anone.me/)を使って診断すると、「心の性はXジェンダー(男性でも女性でもない性別のあり方)、表現したい性別はノンバイナリー(男性でも女性でもないアイデンティティ)」という診断結果が出るのでかなりそこはあいまいではある。実感としては、正直男でも女でもないというよりは、男でも女でもあるくらいの認識が一番心地よい。ではなぜ、私が自分をシスジェンダー女性だと認識しているか。答えは、それが一番楽だからである。こういう言い方をすると怒られそうだが、マジョリティであるということは一種の見えざる特権のようなものであるのだ。私は今のところ、それに迎合して生きることにしている。

 さて、私はそれなりに田舎に住んでいるので、もしかしたら都会ではまた違っているのかもしれないが、だいたいの洋服はメンズとレディースにわかれて販売されている。そして一般に、カジュアルな服はダボっとしたシルエットのものが多く、かっちりした服は体のラインに沿うものが多い。そして私はカジュアルよりもかっちりとした系統の洋服を好む。そうすると必然的に女性ものか男性ものかが明確に規定された体の線が出る服をよく着ることになる。

 私の肉体は女性のそれであり、身長も男性の平均より低いので、男性ものを美しく着こなすことはハードルが高い。したがって女性ものの服ばかり着ることになる。私は女性ものの服を着ることに全く抵抗がないので、それでいいのである。だから大学に行くときや友達と遊びに行くときは半ば進んでそういう「女の子」の格好をしているし、必要があれば(いやいやながら)女性もののスーツを着る。あれは胸元や脚が強調されるし、着心地も拘束されているようなので本当に好きではない。母と相談しながらかなり吟味して選んだのだが、やはりスーツを着るのはどうしても苦痛だ。喪服なんかも嫌だ。あの中途半端に透けた黒ストッキングにどうしてもいやらしさを感じてゾッとする。パンツスーツは正式には喪服として認められないと聞いたとき、じゃあ和服で仕立てるかとまで思った。調べたら高かったし浮くなと思ったのであきらめた。ここまで書いて思ったのだが、私は女ものの服に付随する他者からの視線が嫌なのではないだろうか。

 大抵は女の格好をしていれば丸く収まるのでそれでいいのだが、たまに女の体から離れて「格好いい」がやりたいなと思う。私自身このあたりはまだ自分でも整理がついていないので、読みづらいかもしれないし意味不明な部分があるとは思うが、これは決して「辛口」な女ものの服を着ればいいということではない。女ものの服のように体のラインが目立たず、かといってダボダボにならず素敵な装いをしたいのだ。色々と試してはいるが難しい。この格好で出かけるのはだいたい一人か、親友と出かけるときである。狭い町なので知り合いに会わないだろうかという懸念もある。

まとめ

 装うことは難しい!ということで、書いていたら文字数が多くなってきたので第一弾:性別に関してはここで一区切りをつけ、この記事をシリーズ化する。次回は装うこととミニマリズム、あるいは金銭的問題について書きたいと思う。


 


 

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