見出し画像

尾崎豊というアーティストの魅力



JC HOPPER Jr.のクワバラです。


3rd シングル「ベースボール」のリリース記念として始めてみたnoteだが、見てくれた周囲の人たちからまた見たいと好意的な意見をいくつか頂いたので気が向いた時に、不定期に更新していこうと思う。


さて本題だが、前回のノートでも言及した通り、僕のバンドマンとしてのキャリアの始まりはすべて尾崎豊であると断言していい。

高校生だった時の僕は尾崎の楽曲の一つである「シェリー」を聴いたことで彼の音楽にすっかりほれ込み、音楽を始めるようになった。

高校生の頃には尾崎豊ばかりを聴き、所属していた軽音楽部では誰もカバーをやりたがらないため、1人でもできるようにと弾き語りを始めやがて自分で曲を書くようになった。


自身にとって、音楽人生の原点である尾崎豊という稀代の天才の魅力は何なのかと考えた時、一つの結論が出た。

即ち、尾崎豊の魅力は、あまりにも彼自身が不完全な人間だということだ。


尾崎豊という人間がステージから離れ、一人の人間としてどのような人間だったのか。

尾崎が既に故人である以上、雑誌やネット、テレビといったメディアでの関係者からの証言を集めるしかないが、生前の彼の振る舞いは決して「良い人間」として評することはできないものだった。

どこからその情報を得たか、という出典が既に記憶にないため明記できないので、仔細についてはここでは述べないでおくが、尾崎豊の音楽に惚れこみ、彼のことが好きになって、知れば知るほど彼の人間としてのあまりにも不出来な様が嫌でも目についてしまう。


また正直なところ、彼がここまで時代を超えて愛されるアーティストになったのも、彼の早すぎる死が尾崎豊というアーティストのカリスマ性に一つ箔をつけた故ではないかとさえ思える。

夭折によって彼の音楽やアーティストとしての評価にある種のバイアスがかかっていることは否定できず、また果たして彼が現在まで存命だったとして、ここまでの評価を得ることはできていたかと問われれば、否である可能性が高い。


彼の生涯でリリースしたアルバムは全部で6作。18歳でデビューし、わずか26歳でこの世を去ったことを考えればあまりにもタイトなスケジュールでのリリースだと思うが、ここで特筆すべきは初期のアルバムの早熟性である。


1stアルバムに収録されている「十七歳の地図」には、尾崎の死後にリリースされたベストアルバム「ALL TIME BEST」に収録されている14曲の内、5曲が1stアルバムに既に収録されている。10代の内にリリースされたアルバム「回帰線」「壊れた扉から」の2つを含めれば、14曲の内10曲が10代の内にリリースされたものだ。


これは彼の早熟性を裏付ける証左に成り得るものだが、言い換えてしまえば彼は20代以降、10代の尾崎自身が引き上げてしまったハードルを越えることはできなかった、というわけだ。

尾崎が存命であれば、今年で59歳。
人生の折り返しを過ぎた彼が果たして情熱と曲としてのクオリティを保ち続けたまま音楽を続け、評価を得ているかと問われると、答えに窮する。


もちろんファンである僕からすれば、尾崎が20代で制作した楽曲も魅力あふれるものだと言い切る。4作目の「街路樹」では尾崎自身の精神状態の低迷が痛々しいほど伝わるし、5作目の「誕生」では自身の息子、尾崎裕哉氏や妻への愛情という大きなテーマを見つけた様子が見られ、新しい尾崎豊への期待をすることができた。

しかし20代の楽曲は、世間一般から評価されている、「卒業」や「15の夜」といった反抗的な若者たちのアンセム、そして「I LOVE YOU」や「OH MY LITTLE GIRL」といった普遍的なラブソングといった毛色からは少し外れてしまっていることは事実だ。


尾崎がデビューした当初、1980年代の日本は過度な受験戦争による反動で校内暴力の横行、先生や学校に対する不信感、敵意の表出が顕著であり、そんな学校という狭い社会の中で生きてきた中で生まれた懐疑心、敵対心から生まれた曲こそが卒業や15の夜である。

「夜の校舎 窓ガラス壊して回った」

「盗んだバイクで走り出す」

あくまでこの歌詞は内にある焦燥感や憤りを表現するための手段として尾崎が用いたにすぎず、尾崎豊自身はこの不法行為自体を美化するためにこの歌詞を綴ったわけではない。(事実15の夜の盗んだバイクとは、彼の兄が所有していた原チャリを拝借したエピソードを誇張して書いただけである)

しかしながらその歌詞の鮮烈さが当時の世間から、そして若者たちから耳目を集めるに至った。これは現代におけるZ世代の社会の慣例やマナーに対する疑念や怒りを歌ったAdoの「うっせぇわ」がスマッシュヒットした例にも通ずる。


エンタメの先駆の象徴である若者達の、時代によって異なる価値観にマッチして、結果ヒットするのは楽曲の常だ。尾崎豊もその恩恵にあやかり、一流アーティストとして仲間入りを果たしたわけである。

しかしながら当時のティーンエイジャーたちから求められた「反逆のシンボル」としての役割は、彼自身が通っていた青山高等学校を、デビューを機に退学し、また成長し敵視していた「大人」という存在になってしまったことによって、大人たちが言っていたことに一部、正しさや納得できるほどまでに価値観が醸成されてしまい、彼自身の中で受け入れることができるものではなくなってしまったのだろう。

10代最後のツアー、LAST TEENAGE APPEARENCEツアーを終えて20歳になった彼は、方向性を見失い無期限活動休止し、単身渡米をして創作への活路を見出さそうと模索するも、それも失敗に終わる。(その後の尾崎の20代前半における堕落については、ここでは記述を控える)


学校という狭い領域から抜け出し、心の中で溜め込んでいた社会や学校に対して抱いていた石を投げ切ってしまった尾崎豊。10代という精神的に不安定な時期を商売として音楽を見なす業界の中で揉まれ、その心中は如何程だったのかは、想像に難くない。


ここまで好きであるはずの尾崎を批判的な視点を持って述べたが、もう一度言うように尾崎の1番の魅力は、尾崎豊はあまりにも人間として不完全だという点だ。


尾崎豊の歌詞はあくまで自分を見つめ、内省し、そして訴える言葉が多い。それは心の強い人間には決して出来ないことだ。

自身のイズムを確立しながらも、そこに生じる矛盾や齟齬、醜さを痛感、傷つく弱さをもっていなければ彼の歌詞はきっと形作られなかった。


彼の代表曲の一つに、「僕が僕であるために」という歌がある。この楽曲は僕がはじめて練習し、弾けるようになってライブで披露した思い出深い曲だが、この曲の歌詞には


僕が僕があるために 
勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか 
それがこの胸に分かるまで
僕は街に呑まれて 
少し心許しながら


とある。ここで特筆したいのは「心許しながら」の前についている副詞、「少し」という文言である。

街の雑踏に揉まれながら、孤独の中で彼は街に対して心を許しきることができず、あくまで少ししか許容することができない。


そこに彼の不器用さと弱さをうかがい知ることができる。


あくまで僕の主観であるが、人間の根本は独善的で、醜い生き物である。人々は社会を生き抜く上で常識やマナーというもので己を取り繕ってはいるが、その実は人間が持ち合わせる本性、野性的な部分はたしかに存在している。


決して取り繕うことを否定しているわけではない。寧ろこの文明社会で生きていく上でそのスキルを備え持たなければ、瞬く間に集団からは疎外されてしまう。 特に日本のように集団としての意志を尊重する社会観では、なおさらのことだ。


しかし尾崎はそこを隠すことなく、人間としてのパーソナルな部分をさらけ出して歌にする。本来それを口にすれば、傷つき、疎外されることを口にしている。

それは人間としての本能的な弱さを隠して生きている人、そして弱さを表出させ傷ついた経験がある人たちにとっての教典にさえなり得るほど、強烈な共感を引き起こす。

尾崎豊を嫌いな人にとっては、きっとここが鼻につくのだろう。弱さを忌避している者、またその弱さをそもそも持ち合わせていない人間というのは一定数存在する。そういう者たちにとっては彼の歌詞は「イタい」「甘えている」と見做してしまう。

機会があればYouTubeにて彼のライブ映像を一度見てほしい。ここで声を張り上げてしまえば、後の曲を歌い切ることができなくなってしまう、この曲のこのパートは……とプロならばライブの構成を意識して歌うことがほとんどだろう。

しかし尾崎は違う。その瞬間の感情に正直に、すべてを曝け出している。ライブの最初で声が枯れて、最後の方には床に這いつくばりながら歌に、そしてライブに全力で向き合っているのだ。


また彼の歌詞の話に戻るならば、彼自身が「こうなりたい」という理想の自分になろうとあがく若者であると思わせる箇所も多い。

彼は自分自身が醜く、弱い人間であることを認め、そして向き合おうとしていたと受け取れる。

それは彼の楽曲の一つ「存在」の歌詞にも示されている。


受け止めよう 
自分らしさにうちのめされても
あるがままを受け止めながら 
目に映るすべてを愛したい


自分らしく、という言葉は時として呪いとなる。人と関わりあって生きていくならば猶更、自分らしくあろうとすればするほど人と衝突し、傷つくことだってある。

それは今から30~40年ほど前の、自由が何かと軽視され、ある程度社会からのレッテルが色濃かった当時の日本の社会的価値観からすれば猶更のことだ。その挫折の中でもその感情に蓋をして生きていくのではなく、あくまで「自分らしく」「ありのまま」でいる自分を求めて苦心するという尾崎の人間としての不器用な様がこの歌詞から見て取れる。


正直やろうと思えば、わずか21歳で東京ドームを満杯にしたアーティストである彼は、10代の頃に制作した曲を素知らぬふりをしてライブやテレビで披露して、そのキャリアを固持することもしようとすればできたであろう。若くして大成したアーティストとして賢く生きようとするならば、その選択は何も間違いではない。


しかしながらそれを頑なに認めず、リアルタイムの自分の言葉と、その糧・テーマを探し続けたのは彼の人間としてあまりにも不器用であること、そして潔癖な人間であることの何よりの証だ。


尾崎豊は生きることは、日々を告白していくことだと言っていた。

日々というものは、1分1秒で過去となり、移ろいゆくもの。そこに留まったり、偽りを述べたりすることは、きっと彼には出来なかったのだろう。


理性ある人間としての器用さを持ち合わせていなかったために常に悩みながら曲と向き合い、多くの人を魅了した一方で、彼が早くに世を去る故になってしまったのは残念な限りである。


尾崎豊という人間的な脆さがもたらした歌詞が、聴いた人の本能的な弱さと共鳴し、互いの疵を癒すようにその曲に惹きつけられていくのだろう。


最後に僕の「尾崎豊ベスト」を5曲あげておく。興味があればぜひとも聴いてみてほしい。

1・シェリー
2・街角の風の中
3・遠い空
4・街路樹
5・失くした1/2

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?