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前髪が頬を這う

先日、散髪したのだが、顔を合わせる人々に、
『なんで髪の毛を切ったの??』
と聞かれることが多い。

しかし、それに対する綺麗な回答を
することができないでいる。

答えはそうゆう気分だったし、
長髪の自分に飽きたからなのではあるが、
それを正直に伝えたとしても
周りは釈然としない様子なのである。

自分の中の変化は、周りには見えないものである

1〜2年ほど長髪で過ごして来ていて
バッサリと切ったもんだから、
周りの人からしたら『突然どうした!?』
となるのは頷ける。

自分の中ではずっといつ切ろうか悩んでいたし、
前髪が頬を這う感覚に嫌気がさしていたのだが

自分の内面を知らない人からすればそれは突然なのだろう。
その理由に、失恋や禊など刺激的なものを求めたがっている。

このように、多くの人の行動には
何か深い理由やドラマがあるはずだ
人は考えたいのかも知れない。

それは自分が生まれて死ぬまでにも何か理由がなければならないということなのだろうか?
ただなんとなく楽しいことをして生きていても良いのではないかと最近は考える。

明日も起きれると思っているのは、
昨日まで起きれなかった事が無いからである。

死ぬのが怖いのに、眠ることが怖くないのはなぜだろうか、
それは当たり前のように、明日起きれると思っているからだ。

未来の予測はあくまで過去の経験則でしかないとするのならば、
今まで何千回と目を覚まして来たという経験が、
明日もきっと起きれるはず、という予測をしているのだろう
ならば、起きれない時こそ
その予測が外れたときに
こそ人は死んでしまうのだろう。

災難や幸運なんてものは自分からすれば、
なんの前触れもなく前例もなく起きるものなのである。

ともすれば、毎日寝る前に、天にお祈りをしてみようという気にもなるし
顔を洗って自分の顔を確認したときに笑顔でガッツポーズしても良いのかも知れない。

メメントモリ【死を忘れるな】

memento mori
これはふとした時にいつも思い出すようにしている言葉なのだが、
それならばどうやって生きていくことが正しいのだろうか、

命は有限である。
これは繰り返し教え込まれてきた教えである。

それでも、その有限な人生に
暇や退屈を感じてしまう時が
あるのは何故だろう。
そんなこと感じている場合では無いのではないか?

昔、読んだ本に暇や退屈を感じなくなった時が鬱のサインという文面を読んだ覚えがある。

つまり、暇や退屈というのは
決してマイナスな面だけではなく

自分の何かやりたい!!という
エネルギーが満ち満ちている。
そのやり場を探している状態とも
言えるのではないだろうか

やりたいことやるべきこと
なんとなく分かっているのに
なかなか前に進めずに
始められないということは多いはずだ。

それは、
やりたいことを全部やってしまった時
次の目標が見つからない怖さや、
やり方がわからないという単純な
理由もあるだろう。

やり方がわからなければ調べれば解決はするが、
もしかするとそんな理由もなく
ただやる気が出ないだけなのかも知れない

全ての感情や心の機微に
ナンバリングしていくことも大変なので、
気の向くまま、風の吹くままにやりたいことをして生きていくのもまた良いのだと思う。

そうやって行動したことが、自分の人生に大きな意味を持つことがあるのかも知れない。
髪の毛を切ったことがそう勘違いされたように

昨日の記事です。

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