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手術台のメリー・クリスマス(22)

 二〇二二年の三月の終わり、町にはまだ根雪が残っていた。空港に降り立ったぼくは、迎えにきた美雪と一緒にその足で役場へ行き、婚姻届けを提出した。
 その七箇月後には、町はすでに冬本番を迎えていた。初雪は十一月の半ばだったが、雪はそのまま降り積もって、四十センチを超えるほどになっていた。
 勤労感謝の日に定期考査の採点を終わらせていたぼくは、二日後にあたる週末金曜日のその日に、生徒たちに答案を返却した。週明けからは成績処理に忙殺される。ぼくは三十分ほどかけて答案のデータの入力を済ませると、月曜日の授業で使う教材をクラウドからデスクトップにダウンロードした。ディスプレイに提示するスライドを起動させ、すべてのページに不備がないことを確認してから、未読の校内メールをチェックし終えると、退勤システムに入力をして、職員室をあとにした。
 日が落ちてから、もう二時間は過ぎていた。昼間は止んでいた雪がまた降り始め、冷たい風が頬をつきさすように吹き付けていた。
 校門を出ると、美雪がクルマで待っていた。ぼくはダウンコートに降りかかった乾いた雪をはらって、助手席のドアを開けて乗り込み、
「迎えに来てくれたの?」
と言った。美雪はうなずいてぼくに笑顔を向けると、
「おつかれさま」
と言った。
「きみのほうこそ。疲れてるのに、ありがとう」
とぼくは言った。
「待たせたかな。この週末はゆっくりするつもりで、試験のデータの入力をしてたから、出るのがすこし遅くなった」
「美香ちゃんの店に寄ってくよ」
 ぼくが上着の上からシートベルトを締めるのを確認すると、美雪はギアを二速に入れ、しずかにクラッチをつないでクルマを発進させた。
「結婚して、はじめての誕生日だから」
と美雪は言った。
「日付が変わるまでは、いつもより長く一緒にいたいな、って思ったんだ」
「すっかり忘れてたよ、なんて、小説みたいな台詞は言わない」
とぼくは言った。
「こんな展開を期待してた。うれしいよ」
「よかった」
と美雪は言った。
「迎えに来るって連絡をしてこなかったのは、わざとかな? ぼくを驚かせるための」
 美雪はいたずらを成功させたときの生徒たちが見せるような笑顔をしてみせた。
 白い破線のセンターラインに沿って、コンクリートの帯から、消雪パイプの水が等間隔に噴き出している。雪が積もり始めた三日前から稼働しはじめたのだ。
 美雪は店のまえの駐車スペースに、頭からクルマを乗り入れた。入り口に近いところの車椅子マークのスペースは、店に続くスロープとあわせてスノーダンプできれいに雪かきがされている。
 ショーケースのカウンター越しに、美香さんがぼくらに気づいて、手を振ってきたのが見えた。扉を開けると、いつものようにBGMの心地のいいピアノの音が流れていた。
「美雪ちゃん、先生。いらっしゃい」
と美香さんが店内に響く明るい声で言った。
「こんばんは」
 美雪のあいさつの声に合わせて、ぼくも会釈をした。
「注文通りに、チョコが主役」
と美香さんは言った。包装箱の小窓から、ハーフサイズのロールケーキが見えている。美香さんは、ブラウンのスポンジと生クリームで巻かれた中央を指さして、
「この真ん中は生チョコ。香りがいいから、よく味わってくださいね」
「すごいな」
 ぼくは感嘆の声を放った。
「食べるのがもったいない。ヤバいよ、これは」
 てかてかのチョコレートでグラサージュされた上には、ホワイトチョコのパウダーが初雪のようにかかっている。
「先生、お誕生日おめでとうございます」
 美香さんは顔をほころばせてそう言うと、
「美雪ちゃんに頼んでたの。学校帰りに先生を連れてきて、って。直接お渡ししたかったから」
「ありがとう」
「お礼は美雪ちゃんに言ってくださいね」
 ぼくはうなずいた。
「先生が食べてるときの様子、今度また聞かせてね」
と美香さんは美雪に向かって言った。
「美香ちゃん、美味しいって喜んでる人の顔を見るのがすごく好きなんだって、まえに言ってたよね」
と美雪が言った。
「動画撮っとく。あとで送るね」
「ありがとう。おかげさまで、いい記念日になりそうだ」
とぼくも言った。
 
 雪は静止しているとそれほどでもないのに、一定のスピードでの走行中は吹雪いているように見える。二週間前に冬用に変えておいたワーパーブレードが、進行方向から吹きつけてくる乾いた小麦粉のような粒を、音もなくかき分ける。
「これから毎年、誕生日の夜は」
と美雪が言った。
「わたしのために空けておいて。ずっとよ。わたしが生きているあいだは毎年。わたしを一人きりにしないで」
 美雪が言っていることの言外の意味に、ぼくは気づいていた。しかしそのことにはふれずに、
「大丈夫だよ」
とぼくは言った。
「きみを一人にはしない。約束する。きみの誕生日もね。誕生日のほかにも、記念日は全部空けておく。クリスマスもね。ずっと二人だ」
「三人になるかも」
「え?」
 ぼくは美香の横顔を見返した。驚いているぼくに、美香は笑い声で、
「まだ先の話」
「びっくりさせるなよ」
 前方から目をそらさずにいる美香の表情を読み取ろうとしたが、車内が暗くてよく見えなかった。
  その夜、美雪はぼくに、新しいスマホケースをプレゼントしてくれた。ケースの背面には、ぼくの誕生日が金の文字で入れられていた。
「おそろいにしたよ」
と美雪は言った。同じターコイズブルーのカバーは、美雪の新しい機種のほうが一回り大きかったが、
「見分けがつくように、文字をいれたの」
 裏面に刻印された「le vingt février」は美雪の誕生日だ。

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