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花明かり(18)

 彩花はちりめんじゃこのおろし大根にポン酢を垂らすと、取り箸を手にした。
「ママはこんなところまでは来ないさ」
と私は言った。
「たとえ彩ちゃんの頼みでもね」
 彩花は出し巻きの一切れにおろし大根を添えて取り皿に移しながら、
「わたしじゃなくて、おじさまが呼ぶんだよ」
 そう言って、出し巻きの残りを皿ごと私のまえに置いた。
「ママがおじさまを、ここへ来るように誘ってたでしょ」
 私はのばしかけていた箸を止めて、
「智子さん、ママからおれが誘われた? いつの話だ?」
 私は彩花の顔を見返した。
「おじさまと付き合い初めてすぐの頃。最初に誘ったとき、ママはおじさまから断わられた」
「ママが彩ちゃんに、そんなことを言ったの?」
 彩花はかぶりを振って、
「言ってない。わたしの想像」
 今日彩花が写真とメッセージを送りつけてきたのを見たとき、私は智子に電話をかけた。彩花が何のつもりでいるのかを智子に確認しようと思ったのだが、智子は彩花が私に会いたがっているのだろうと言った。それ以上のことを訊こうとしても、智子はそっけなかった。
 彩花はしかし、智子に私とのことを、そのいくらかは聞かされているだろうと私はふんでいた。智子がかつてここへ一人で来て私を呼び出したのは事実で、そのことを知っているからこそ、彩花は今日、自分一人でここを訪ねてこようと思い立ったに違いない。
 しかし彩花は、自分は何も聞かされてはいないというていで、
「でもきっと合ってる。また今度、って、おじさまはママに言い聞かせた」
 事実としては、断ったのは私ではない。最初にそう提案した智子が、自分であとから撤回したのだ。
「ママは期待して待っていたのに、おじさまはそれきり何も言ってこない。半年後の桜の季節に、待ち切れなくなったママは自分から訪ねていって、おじさまを呼び出した。合ってるよね?」
「時系列はね」
と私は言った。
「だけど、事実と違うところがいくつかある。そもそも知り合って間もないときに、ママを連れてここまで来ようと考えたのはおれのほうだ」
「おじさまから誘ってたんだ」
と彩花からが目を輝かせて言った。
「ママの気持ちに気づいてたってこと?」
「誘ったんじゃない」
と私は言った。
「白状すると、そのときのおれはママを強引にここへ連れてくることを躊躇したんだ」
 行くのを拒んだのは智子だったが、そうは言わずにおいた。
「なので、彩ちゃんが想像していたママの心情描写は間違ってる」
 私は出し巻きを頬張ると、カクテルの残りを二つともあおった。
「間違ってないよ」
と彩花は言った。
「ウブだったんだね、ママもおじさまも」
「そういうことにしておこう」
「カクテル空になってるよ。ビール追加しようか」

 僕と智子は、テトラポッドに向かい合って腰を掛けていた。なぜかその一基だけが防波堤に引き上げられたように載っかっていたのだ。宵闇の中、二人ともにスニーカーを脱いで、靴下に付いた砂を払っていると、国道の陸側の路肩を進んでいく三台の自転車のライトが見えた。
「高校生だね」
 自転車の列が通り過ぎてから、智子が言った。
「塾の帰りかな?」
 僕は腕時計のライトを点灯させて時刻を確かめ、
「もうすぐ八時。部活帰りかもな」
「そうね」
と智子が言った。
「七時過ぎくらいまでは練習してるもんね。わたしの学校もそうだった」
「きみも何か部活を?」
「入ってなかったよ」
 僕は智子を見返したが、暗がりなので表情はわからなかった。
「先輩は?」
「軽音楽部」
と僕は言った。
「バンド組んでたの?」
 僕はうなずいた。
「ギターとか?」
「ベース」
「かっこいいじゃん」
「よくねえよ」
「ジャンルは?」
「ブリティッシュ・ハードロック」
「うるさいやつだね」
「まあな」
「あ、でも、思ってるのと違うかも。うるさいのはヘビメタ?」
「同じようなもんさ」
と僕は答えた。
「おれたちがってたのはメタル。だけどそう言うと、ばかにしてくるやつもいるからな。髪伸ばしてたの? とか、革ジャン着てブーツ履いてたの? とか」
「それそれ。今そういうの、想像してた。やっぱり長髪だったの?」
「二年まではな。革ジャンは重いからステージでは着たことがない。Tシャツにスリムのジーンズ、黒のコンバースのハイカット」
 智子は笑った。
「ギターが二人とタイコ、ベースのおれで四人全員、男。一年のときにはキーボードの女の子もいたんだけど、音大受験するからピアノのレッスンで忙しくなる、って、二年になってから抜けてった」
「ヴォーカルは?」
「ベース弾きながら、おれが歌ってた」
「すごい。先輩のステージ、見てみたい」
 僕はかぶりを振って、
「もう解散しちまった。それに、最後のステージのあとで、二度と人前で演奏はしない、って決めたんだ」
「残念。でもどうして?」
「たいしたことじゃない」
 言わなくてもいいことまで言った、と思った。
「何かあったの?」
 暗闇の中で、智子が問いかけた。
「病気になったんだよ」
と僕は適当なことを言った。
「文学という名の病気にね」
 笑いでごまかすつもりだったが、智子は笑わなかった。どんな顔をしていたかはよく見えなかった。

 ちょうど走ってきた流しのタクシーを拾った。
「どこかこのあたりで」
と僕は後部席から身を乗り出し、運転手に訊いた。
「朝まで開いてる店はありませんか?」
「深夜までやってる店はあるけど、朝まではどうやろな」
 運転手は関西なまりで、そう言った。
「とりあえずそのあたりまで」
「ちょっと遠いで」
「どれくらいかかりますか?」
 僕は運転席に掲げられた四十半ばと思われる風貌の運転手の、人のよさそうなそうな顔写真を見ながら訊いた。
「三十分くらい」
と運転手は肩越しに答えた。
「お願いします」
と智子は言った。お金はあるから、大丈夫、と僕の耳元でささやいた。
「あんたら、運がええわ。ここいらでこんな時間に、流しなんか、まず走ってへんからな」
 ビビリ音を立てて動くワイパーの先は、すれ違うクルマもまばらだった。メーターの横の時計は十一時を過ぎていた。
「朝まで過ごすんやったら、ホテルも近くにあるけど」
と運転手が言った。
「さっきも二人連れの客を送ってきたところなんや」
「いえ」
と僕は言った。
「僕たちは、そういうんじゃないんです」
 運転手はルームミラー越しに僕の顔を一瞥した。鼻の下に無精ひげを生やした口もとに微笑を浮かべたまま、また前方に視線を戻すと、
「変なことは何もせん。そう約束して、朝まで起きて話してたらええがな。眠なったら寝てもよし。何かしても、コンドーム付けてたら大丈夫」
 僕の隣で、智子が吹き出すのをこらえていた。
 二十分ほど走ると、隣の駅に近づいたのか、灯りのともった店が見え始めた。

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