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生きている姿が、誰かの生きがいになる。

 
前回のサヘル・ローズさんのお話の続きです。

エキストラで死体の役ばかりが続いた後、セリフのある役も少しずつできるようになったサヘルさん。

当時は今よりも外国の方に対する偏見があったのでしょう。 

8歳から日本で暮らすサヘルさんのように外国籍でも流暢に日本語を話す方はたくさんいるのに、外国人だからとカタコトでセリフを言うように指示されたこともあったとか。

でも、サヘルさんは

「純外国人でも日本人の役はやれるし、日本人の心=和ごころがわかる人になりたい。」

と思ったのだそうです。


そんなサヘルさんが、少しずつ仕事の幅も広がっていき、タレント、俳優として認められるようになります。


4歳で家族をなくし、養母のフローラさんに出会ってサヘル・ローズとなり、日本に来て辛いこともたくさん経験して仕事で活躍できるようになったサヘルさん。

彼女は二つ、したいことを話していました。

「母がしてくれたことは、一生返せない。

サヘル・ローズという名前に力をつけて育ててくれた養母のフローラ・ジャスミンという名を歴史に刻みたかった。」 

そして、日本にたくさんある施設の子供たちのために、こんなメッセージを送ってくれたいたのです。

「大丈夫、どんな状況下でも人は目標を持って生きれば誰かは見てくれているし、道がなければ道は自分で切り開ける。 

人間はいくらでも一本の木として、根っこを生やして行きていける。

私はそのロールモデルになりたかった。」


サヘルさんが芸能の仕事をするようになったのは、最初は「お金を稼ぐため」でしたが、

「エンターテイメントの力を使って声を出せない方達のたちの代弁者になるためこの道を選びたかった」

と話していました。


そんなサヘルさんがお仕事の幅が広がって舞台に立つことになった時、サヘルさんのお母さんが彼女の舞台を見に来てくれて、

「あんなに小さかったあなたが」

と泣いてくれたそうです。


フローラさんに引き取られる前に施設にいた時、戦争のために4歳で家族を亡くしたサヘルさんは一般常識も言葉も学べていなかったので、7歳でフローラさんの養女になった時はまだうまく話すこともできなかったようです。 


サヘルさん曰く

「周りの人に『障害を抱えてるのか』と言われるくらい、出遅れていた」

とのこと。


(それはサヘルさんだけではなく、小さい時に親元で過ごせていない多くの子供たちが抱える問題なのだといいます)

「その娘が今、自分の足でちゃんと立って生きている姿を見て、母が涙を流している。

あの涙が忘れられない。」


サヘルさんが子供だった頃、お母さんは一生懸命に働き

自分の服がボロボロになっても、サヘルさんにはいつも綺麗な洋服を買ってくれたとか。

そのお母さんが今、朝ごはんに好きなパンを選んで、大好きないちごジャムをぬっている姿を見てサヘルさんは幸せを噛み締めているそうです。

「私を育ててくれた方が生き生きしてくれていることが、本当に嬉しい。」

サヘルさんの言葉から、お母さんへの思いが伝わって来ました。


そして、そんなお母さんの姿がサヘルさんの生きがいになり、サヘルさんが活躍する姿がお母さんの生きがいにもなるのでしょう。 


「生きている姿が、誰かの生きがいになれる。

人間って生きているだけで誰かの生きがいになれるって、最高にいいですよね。」


サヘルさんはお話の中で

「あなたの言葉は人を包んでいますか?」

と語りかけていましたが、サヘルさんの言葉は本当に温かく包み込んでくれるようでした。

サヘルさんが国際人権NGOの「すべての子どもに家庭を」の活動で親善大使を務めていたり、子供たちによりそう活動をされていることもあり番組の最後には施設で暮らす子供達についてもお話していました。


長くなりましたので、続きはまた次回に。

今回も最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

*10月20日の満月も、とても綺麗でした🌕

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