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赤い口紅とロレックス

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特別の装いもしていないのに、ひときわ目立つ女性がいて、いつも惚れ惚れとさせられる。

たいていストレート・ジーンズにコットンのシャツ型のブラウス、素足にサンダルといった格好で、背筋をぴんとのばしている。洗いたてに見える顔に唇だけ真紅に塗ってあり、それが他の部分と対照的に女っぽく、清潔なエロティシズムを感じさせる。指輪も腕輪もイヤリングも、とにかくアクセサリー類はもののみごとに外し去り、彼女が身につけているものはただひとつ、実用的な腕時計だけ。もっとも時計はゴールドのロレックスである。

真紅の唇とロレックスは、三十代の女でなければ似合わない。ジーンズだって、三十代だからこそ、少しも汚らしく見えない。彼女に会うたびに、私もあんなふうに無駄なものをすべて取り去った装いができたらいいのに、とつくづく思う。

しかし全ての指から指輪を取り去るのは、勇気がいる。同様に、イヤリングも首飾りもなしで鏡の前に立つと、自分が淋し気に見えてたまらない。ストッキングなしでサンダルをはくほど、素足に自信がもてない。お化粧をしなければ、五歳は老けて見えてしまう。で結局、相変わらず、チャラチャラとしてもので自分を飾りたて、束の間平安でいられる。

そして再び彼女に会うと、そんな思いは微塵に吹っ飛んでしまい、ひどく惨めな自己嫌悪に陥る。私は自分を脂粉の臭う、贅肉のついた夜の女のように下品に感じ、その場から逃げだしてしまいたい衝動にかられる。けれどもかりに、彼女と全く同じ格好をし、赤い口紅とロレックスだけで人前に出たとしても、私は自分が美しいとは感じないだろうと思う。なぜ、彼女だけが圧倒的に美しいのだろうか。セクシーで、ひときわさんぜんと輝くのか。

(森瑤子 「女ざかりの痛み」)

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私はジュエリーが大好きで、必ず毎日着けるゴールドのリングを筆頭に、ピアスやネックレス、いつも外さないゴールドとダイヤのブレスレットなど、いくつものコレクションを眺めながら、今日はどれにしようかな・・と悩みながら幸せを感じるのが日課となっている。

私が財産をはたいてジュエリーを集めるのは、そのものの美しさにほれ込むのはもちろん、購入するときの思い出含めて、身につけることで自分を奮い立たせたり、つらい時に守ってもらえるような、お守りのような感覚を持っているから。

だから、この森瑤子さんのエッセイに出てくる女性のシンプルでそぎ落としたカッコよさにあこがれながらも、私には真似ができない。

たくさんつけるジュエリーも、大切な私の一部だから。

そのカッコよさを真似るとしたら、自分に本当にフィットし、かつ必要なものだけを選び取り、無駄なものは潔く排除すること、だろう。

「自分」を軸に考えられた装い、生き様がやっぱり一番かっこいい。

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