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赤色結び

 遅かれ早かれの運命。

 ◆ ◆ ◆
 僕の頭が割れた。
「頭が割れるほど痛い」という表現があるが、そんなみなが手垢をつけたことばの綾ではなく、文字どおりに割れた。痛いほどに頭が割れたのだ。
 朝早くの職場の会議室で、僕はビデオ会議が始まるのを待っていた。あと5分で始まるとなったところで、いすの背もたれに僕は深く寄りかかった。背もたれは深く沈み込み、だしぬけにいすはうしろに引っくり返った。
 子どものころに読んだ漫画「GTO」で、主人公の鬼塚がよくくり出す技のひとつに「ジャーマンスープレックス」がある。相手のうしろから両手をまわしてかかえ込み、そのまま後方にのけ反りながらかかえた相手を頭から地面にたたきつけるのだ。なんて痛そうな技だ、というかクッションのない地面でやられたら相手は死ぬんではないかと読みながら考えたものだ。
 僕は、会議室のいすにジャーマンスープレックスを決められた。いすは、僕の頭を部屋の窓部分にあった出っぱった角にたたきつけた。眼前の景色が一瞬モノクロになった。

 ◆ ◆ ◆
 会社専属の運転手が運転する車に僕は乗っていた。ジャーマンスープレックスから30分ぐらいが経っていた。運転手のベトナム人おっさんは冷静であったが、同乗しているベトナム人女性はそわそわして、僕ではなく自分自身を落ち着かせるためにぶつぶつとことばをつぶやいている。
 すでに平静をとりもどしていた僕は、彼女が気の毒に思えて、気のきいた冗談でも言ってやろうと考えた。
「傷口、見る?」
「見ない!」
 もはや怒声であった。
 引っくり返ったあと、打った後頭部をさわるとぱっくりと割れていた。そこを撫でた指先には、多量の鮮血がついていた。
 やってしまったのだと気がついた。遅れて、じわじわとした痛みが頭のうしろを支配し始める。
 現地日本人社長に電話を入れて、会議欠席の連絡、ことのしだいを伝えると、今から救急で入れる病院を調べると電話が切られた。ちょうど出社したベトナム人女上司に状況を伝えると、顔色を変えて事務所内のベトナム人と話し始めた。おろおろとする僕に「安静にしてろ!」と叫ぶ。何枚もののティッシュで傷口をおさえている僕は、とりあえずちょこなんと会議室のいすに座って、なにかを待つ。
 社長から伝えれた病院名を女上司に伝えると、総務課のベトナム人女性といっしょに社用車に乗せられた。
 車内で「痛くないの?」と執拗に訊ねる彼女に「少しだけ」と言って笑い返すと、あきれたような笑っていた。

 ◆ ◆ ◆
 病院につくと、さっそく僕は治療用ベッドに寝かされて、西洋人の医者に少しだけ髪を切られた。そのあとにあらわれた日本人の医者と西洋人の医者が英語で話しているが、「なんで髪切っちゃってるんだよ」と日本人がとがめているようだ。「え、切らなくてもよかったのに切ったの?」と、その日一番の悲しみに味わった。
 水をぶっかけられて、麻酔を注射されて、水をぶっかけられながら縫われ、最後に破傷風のワクチンを打たれて手術は終わった。4針縫ったよと最後に日本人医者は言った。
 遠くのベンチに座っていたベトナム人女性はぼんやりとした顔を浮かべていたから、笑いながら手をふった。怒りが混じったような笑みが返ってきた。

 ◆ ◆ ◆
 その日は上司から許可をもらい、早退した。頭が割れていようが、早退できるとなると心がわくわくしたが、さすがに口には出せなかった。
 家のベッドで、あらためて思い出す。大学時代にベトナムに留学したとき、3週間目で足の骨を折っていた。そして、今回、ベトナムに来て3週間目で頭を割った。
 不思議な縁だとしみじみ感じた。痛みと不甲斐なさに慣れていた僕は、枕を涙でぬらすことはなかったが、少しだけ頭の血で枕をぬらしてしまった。
 この翌日、社内一斉メールで「いすには正しい姿勢で座りましょう」と通達されることを、このときの僕は想像もしていなかった。
 

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