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「おかえりなさい」と言われても

「いってらっしゃいませ」と言われても。

◆ ◆ ◆
 ハノイで知り合った日本人のおっちゃんから連絡があった。
「メイドカフェって好きですか?」
 前の職場は、秋葉原が近かった。存在自体は身近で、興味もあったが、ついぞ入ることはなかった。
 そう伝えると、ハノイに最近メイドカフェができたことを教えてもらった。「行きませんか」と誘われたので、ふたつ返事で応えた。
 約2週間後の土曜日であった。

◆ ◆ ◆
 その土曜日が昨日だった。
 ホータイというハノイの大きな湖の近くにそのメイドカフェはあると、送られてきた住所は示していた。
 配車アプリにその住所を伝えて来たのだが、店の看板はどこにも見当たらなかった。あれと不安になっていると、店と店のあいだにあるせまい路地にピンクの看板がかかげられていた。くだんの店だった。
 非常にあやしい。きたない路地裏で照るピンクの看板の毒々しさよ。
 おっちゃんと合流して、なかに入る。
 せまい部屋に小さなテーブルが4つほどおいてある。メイドさんの服を着た女の子たちの写真がピンクに塗られた壁にかけられている。
 ベトナム人の店員がさっそく僕たちのテーブルに来た。小柄で、フレームの大きなメガネをかけた子だった。ふわふわしたエプロンを着ていてかわいらしいキャラクターのポシェットを肩にかけている。鼻にほくろサイズの銀色のピアスがついているのが一番気になる。
 日本語で「おかえりなさい」と言われたあと、英語で説明してくれる。
 スタンプカードがあること、料理がいろいろあること、あとは卓上においた注意事項を守ること。
 僕はオムライスとクリームソーダを注文して、女の子は厨房へ向かった。
 卓上にはいろんな注意事項が書かれたスタンドがあり、そのうちのひとつに「メイドをかってに撮影しないこと」とあった。なるほど、こういうものなのか。

◆ ◆ ◆
 自由に使っていいというたなにあった、ふわふわのウサギ耳カチューシャをつけて、おっちゃんと黒ひげ危機一髪をしながら待つ。一発目で黒ひげが飛び出し、これはなにかの暗示なのかと不信感をいだく。
 そうそうに黒ひげをやめて、おっちゃんと仕事の暗い愚痴をこぼし合う。僕たちのテーブルだけピンクの壁に似つかわしくない色に染まっていく。
 料理が届くと、女の子はオムライスにケチャップでなにか描くと言った。「パンダ」と答えるとちゃんとパンダの顔を描いてくれた。日本語でかわいらしい呪文を唱えてくれたが、あんまり覚えてはいない。
 オムライスとクリームソーダをいただいたうえで評価すると、一番おいしかったのは、クリームソーダの上にのっていたアイスクリームだった。
 オムレツハヤシライスを食べているおっちゃんは「ごはんがなにかおかしい」とぼやき続けている。オムレツに描かれた猫の顔をおっちゃんは無慈悲にくずしている。

◆ ◆ ◆
 どうやったら女の子と写真が撮れるのか訊くと、85,000ドン(ざっくり500円)でチェキが1枚撮れるらしい。
 正直、高いしいらなかったが、これもひとつの思い出だと考えて撮影する。
 会計後、「いってらっしゃいませ」というメイドの日本語のあいさつを背中に受けながら店を出る。
 おっちゃんと別れてから、小雨の降る湖をながめる。ピンクの看板を一度だけふり返って、もう前だけを向いて少し先に止まったタクシーのもとへ僕は足早に近づいていった。

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