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中谷宇吉郎先生と「サントリーホール」 by工藤雪枝(#YukieKudo )

最近、私がすっかり傾倒し、随筆などを読み漁って感動し、尊敬してやまない北海道大学名誉教授であり、我が母校、東京大学理学部卒の中谷宇吉郎先生。

随筆などを読めば読むほど、実に私にても多くのご縁があることに気づき感慨深い。そもそも我が大叔父が元北大総長で中谷宇吉郎先生の最後のご講演を拝聴し、また、その大叔父の両親(元文部省官僚、満州の日本大使館一等書記官)の我が親戚が我が両親の仲人である。

これまで我がYOU TUBEチャンネルにても、数本の中谷宇吉郎先生に啓示を受けたかのような気持ちになり、以下の3本の動画を一人で制作してしまったほどである。

さて、皆様方におかれて、この偉大なる「人工雪結晶を世界で初めて生成に成功された」中谷宇吉郎先生がサントリーホールと如何なる関係があるのか想像もつかない方も多いであろう。

「師として中谷先生を指導された寺田寅彦先生が三味線の音響など、音響学に凝っておられたから?」とのご想像をされる方々も多いかと思うがそうではない。

中谷宇吉郎先生の随筆「鳥井のことなど」から一部文章を引用させていただく。

「私の家では、父が早く亡くなって、母が一人で、田舎で呉服屋をしていた。それで私と後に考古学をやった弟とを教育するのは、なかなか大変であった。溝淵先生(工藤注、中谷先生の高校時代の恩師)にもそういう話をしたかどうかは忘れたが、或る日、先生から、大学へ行ってからの学資について、相談があった。

関西の実業家で、全くの匿名で、学費を出したいという人があるが、それを貰わないか、という話なのである。毎年各高等学校の校長に依頼して、各校から一名宛、そういう学生の推挙を頼まれるのだそうである。金額は月学50円で、3年間、返済の義務はもちろんなく、その実業家の名前は、本人にも知らされない、というのである。それでは返済のしようもないわけである。

当時の50円といえば、今(工藤注、昭和29年、1954年)の2万円ぐらいに相当するであろう。一流の下宿にいて、相当本も買い、時には映画も観たり、コーヒーをのんだりしても、50円あれば充分という時代であった。あまり結構な話で、少し気味悪いぐらいであったが、悪びれずに、有難く頂戴することにした。」

しかし、私にて中谷宇吉郎先生のその「鳥井さんのことなど」の随筆を読むと、関東大震災(1923年大正12年)などのせいで、その「篤志家」が鳥井信治郎という名前であることが中谷宇吉郎先生においてわかったのである。その名前は中谷先生ご存知なかったのであるが、実は鳥井信治郎氏こそがサントリーの創業者である。

たまたま、関東大震災ときにすっかり多くのものを失い、奇遇にも関西に「疎開」していた中谷先生におかれて、その「鳥井さん」の住所、すなわち「川辺郡西村字なんとか」を頼りに挨拶をしにいったところ、匿名の「篤志家」が鳥居信治郎氏であること。そして、その鳥井さんこそが、「赤玉ポートワインやサントリーの主人であること」を初めて知るに至ったのである。

随筆にはこう書かれている。

「今まで貰った学資ははじめから返済の義務はないと聞かされていたが、匿名の本人がわかった以上、一応意向をきいてみる必要がある、その点に触れたら、鳥井さんは一寸真面目な顔つきになって述懐めいた口ぶりで話しだされた。

〜私は今は金も相当出来て、皆さんに少しぐらいのお手伝いも出来るようになったが、もとは非常に貧乏だった。しかしこの財産は、自分で働いて儲けたものと思わない。これは天から授かったものと思っている。それで君もあの学資は、天から授かったものと思っていたらよい。返済の意志があったら、天へお返しなさい〜

という意味のことを言われた。もちろん大阪弁で、その方がもっと味があるのだが、どうも巧く表せない」

私自身、かれこれ、20年以上、中谷宇吉郎先生ファンなのであるが、まさかクラシック音楽好きの私にて、どれだけ通ったか!数しれない「サントリーホール」とのご縁がこんなところでもあるとは想像だにしなかった!

そもそもクラシック音楽やオペラオタクなる私にて、世界中のコンサートホールやオペラハウスに行き尽くし、多くの場所では全ての!料金カテゴリー(具体的にウィーン国立歌劇場であれば平土間から立ち見席までなど)の体験者たることが多いのである。

そういう経験を重ねるにつけ東京の「サントリーホール」でも音響やその演目、ピアノ・リサイタルか、交響楽団かなどにより、MY SEATとでも呼ぶべき、音響効果と舞台視覚効果(ピアノ・リサイタルなどではピアニストの指が見えない席は私にては我慢できない)により、決まってきた感じがある。

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以上の写真は「サントリーホール」の正面、コンサートホール内、シャンデリア(照明はホール内とロビーとで、シャンパンの泡と、ビールの泡とが表現されている。楽屋裏の写真は実際に楽屋裏にはいったこともある我が記憶ではもっと多くの「サイン、署名」で溢れていて圧巻である。また、ホール内の席や床の木の部分はワインを熟成させる木に因んで樫の木(OAKS)が使われている。

我が個人的意見だが(因みに私にては1−2例の実に断りがたき例外を除き、全てのチケットは自分で購入しており、同時に一週間に2〜3回コンサートに通っていた私にて、かなりの凄まじい金額でもあった〜汗)MY SEATはLBブロックの何列のどの席がベストという感じでもあり、だいたいはその席のチケットを購入していた。

全てのカテゴリーの席はサントリーホールにても購買した体験もある私だが、特に平土間と違い、2階席のLBブロックあたりが音響的に気に入っていたし、特にピアニストの運指を見るには、実に理想的でもある。

ただ私にて、一生で2回だけファンとして花束を差し上げたことがある。一回は渋谷のオーチャードホールの「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサート」の指揮者、クラウディオアバード、1989年。そして、2回目はピアニスト、クリスチャンツンメルマン、サントリーホール。後者は正確な年時を覚えていない。その場合には平土間である方が理想的であろう。

前者の場合、私が27歳時は、女性の職場同僚と共にコンサートに行き、彼女の望みで花束をあげようということになったのであるが、私にてはもともと実に内向的な上に、私自身相当長い期間アバードファンであったから、もう演奏中も緊張してしまって「花束をあげるのもいかがなものか!」という気持ちであった。

でもあの1989年に聴いたウィーンフィルのモーツアルトの交響曲29番にて、バイオリンの音色と音階がエスカレーションしていく第1楽章の音の美しさに昂然となり、陶酔し驚愕した私にて、「花束を無事差し上げることが出来るだろうか?」と大いに緊張し、そういうことも果たしていいのか、悪いのかとつくづく思い知ったのである。

でも2回目のツィメルマン様においては、そもそも確か彼の初来日ぐらいのタイミングでもあり、「ようこそ、日本へ」という想いを伝えたかったので、そういう変な緊張感はなかった。また、ホテルのお部屋の中でも飾っていただけるように小さなブーケを白い薔薇で作っていただき、リボンはサントリーホールと日本とポーランドの国旗を象徴するように白とバーガンディ色にして花屋さんに注文した。今でも、そのときのツィメルマン様の「Thank You Very Much」というちょっと嗄れた低音の声をはっきり記憶している。

また、私において、スタニスラフ・ブーニン様のコンサートも前述のLBセクションで多くの機会堪能させていただいた。LBだった故に2階席で花束はお渡しできなかったのであるが、私がキャスター兼コメンテーターを務めていた生の報道番組でインタビューさせていただいたのも実に光栄であった。

ブーニン様におかれては、1985年にショパン国際ピアノコンクールで見事に優勝された後、日本ではいわゆるブーニンブームという現象があった。しかし私にては、本来「流行だから追う」なる感覚が全くなく、むしろ「流行だから敬遠する」なる変な思考癖を持っている。また同時に私において、1989年から1992年まで欧州に留学していたこともあり、ブーニン様のピアノの素晴らしさを実感したのは、1990年代半ば以降?かと記憶している。

特にその頃のスタニスラフ・ブーニン様におかれて、運指法にて、あたかも弦楽器のヴィブラートをかけるような指の動かし方をなさっていたのが、実に私においては興味深かった。また、私にて、今でもやはりショパンやドビッシーなどブーニン様でなくては!という拘りもあり、以下のような動画も作成した程である。


このサムネイルの写真は「サントリーホール」の楽屋だったと記憶している。中谷宇吉郎先生へ学資を支援された鳥井信治郎様がいなければサントリーホール(1986年建設)もなかったであろう。そう考えると実に感慨深い。

またサントリーホールの建設の際には、眞鍋圭子様や指揮者カラヤンなども加わり、ホールの建築模型を小さくしたモデル内での音響、特に残響音を理想的にするためにレーザー光線による研究も行われた。

サントリーでは、世界で初めての「ブルーローズ」青い薔薇の開発もなさった実績もある。もし三味線音響の研究に関心を持たれた寺田寅彦先生(中谷宇吉郎先生の恩師)や、世界で初めて人工雪結晶作成に成功された中谷宇吉郎先生や鳥井信治郎様がご存命だったら、音響の研究にも関心を持たれたであろう。同時にこのような素晴らしいホールや薔薇が日本で実現されたことをどれほど、喜ばれたかと想像すると、私の涙腺もつい緩み、涙が浮かんできてしまう今である。

文責、動画制作、MORAL RIGHTS 工藤雪枝 同時にそれぞれの動画に記載されたように知的財産権とMORAL RIGHTSを記す。

2021年8月27日

追記 我が叔父が元北大総長で、現在も北海道札幌に在住している佐伯浩という関係にて、ふと中谷宇吉郎先生の叔父上で、中谷宇吉郎先生ゆかりの場所が出来ている大分県由布院、亀の井別荘のことを追記させていただく。

私にては、1990年代半ばに講演のご依頼を受け、由布院にうかがったことがあり、その際に亀の井別荘の古式ゆかしき風雅で、多くの本があるなんともいえぬ趣のある様子(当時は私において、中谷宇吉郎先生のことを存じ上げていなかった)を今でも脳裏に焼き付いたように思い出す。

その多くの本がある「書斎」のような「居間」のような亀の井別荘の一室の場所に、古い、おそらくは昭和30年代か、はたまたもっと前の時代かと推測される蓄音機があった。私において、その蓄音機で音楽を聴いた訳ではないのだが、そのなんともいえぬ文化的雰囲気の亀の井別荘にて、拝見した蓄音機のことをありありと思い出しつつ、中谷宇吉郎先生におかれてどんな音楽がお好きだったのか?と想い出したので、あえてその旨追記させていただく。

2021年8月28日 工藤雪枝


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