正しく「戦争」を語り継ぐとは

原爆投下日や終戦記念日が近づくと、太平洋戦争中、戦争直後のドラマや映画がよく放映されます。しかし、常に不思議なのは、決まって日米間の戦闘か日本本土での話に限られることです。それでいて、戦争を語り継ぐと言います。かなり偏った「戦争」なのです。

日中戦争と太平洋戦争を正しく理解するなら、満州を含めた中国大陸、かつて日本の一部であった台湾や朝鮮半島、東南アジア等を主舞台とした話があったとしてもいいと思うのです。それはそれなりに、通常と異なった視点からエンターテインメント性のみならず、歴史的意味があると思います。

それを「敢えて」しないのは、戦争責任について考えねばならなくなるから、戦争責任を問われたら困る人への忖度か、そして忖度し続けていたら、いつの間にか本当に知らない世代が支配的な状態となり、そのような視点が思いつかなくなってしまうのか、と思います。しかし、そうした理解不足が、戦争への道に繋がりませんか?

原爆投下にしても、同盟国ドイツや降参した1945年5月、あるいは日本本土への空襲が可能となったサイパン陥落時1944年7月等、孤立無援でもはやアメリカの攻撃に耐えられないことが判明した時点で降伏していれば、この惨事は起きないはずでした。被爆国として、原爆を落とされないために、何をすべきか、何を間違えてこの時を迎えてしまったか、という視点で考えてもいいと思うのです。被爆国として訴えられることは、他力本願な核廃絶だけと考える呪縛から、解放されていいと思います。

原爆被害の凄まじさ、敗戦による様々な辛酸体験、これだけが、あれだけの被害を出した戦争について、本当に語り継ぐべきことなのでしょうか?本来は戦後直後に、しっかり反省するための機関や解説に政府が精力的に動くべきだったのですが、そうはなりませんでした。

日本にあまりに都合のよかった冷戦ロジック
日中戦争、太平洋戦争において、日本は加害者の顔も持ちます。しかし、戦争責任について考えるには、東京裁判は理不尽(当時戦後に裁判を行うこと、裁くべき法律が定められていないので、過去に遡及して罪を問うことはそもそもあり得ない)かつ短すぎ、そしてその後の「冷戦」が日本の戦争責任者たちにとり、あまりに居心地がよかったのかもしれません。以下考えてみましょう。

戦後直後、二度と日本やドイツが世界の脅威になる状況を作ってはいけないという思考が、戦勝国に広く存在し、「じゃがいも/ぺんぺん草しか生えていない野原にしてしまえ」等といった極論までありました。そうした意見を反映し、米軍占領下の日本に、国家として侵略戦争を放棄した(自衛戦争は放棄していません)憲法が世界初で誕生し、自衛目的以外の陸海空軍を保有しないと定めました。

しかし、冷戦が始まった途端、アメリカは、日本に地政学的価値や特定の日本人に、新たな価値を見出しました。日本の地政学的価値と言えば、ソ連や中国大陸への近さであり、国民党その他アジアを赤化させない支援、またソ連の南下を防ぐ上において重要な軍事基地、補給基地です。(逆に工業国日本への期待はあまり聞きません)

そのため、よく「逆コース」と言われますが、米軍より再軍備要請が、平和憲法を掲げる日本に寄せられました。当時は従うしかない日本ですが、平和憲法との折り合いの結果、日本政府は新しい軍隊の名前に「自衛」を冠し、その軍備を国内では小さく見せる努力をしました。(「自衛」と言いながら侵略する先例が多々あるとして、自衛隊を違憲とする日本社会党や日本共産党と、守勢に立たされる自民党との間で、長らく国会で神学論争が繰り広げられてきました)

軍隊にどのような名前を付けようと、軍は軍です。しかも、GHQから軍創立を急げと言われる一方、旧日本軍の職業軍人たちが数多くいるわけですから、必然的に一部自衛隊に就職することになります。これでは、新しい革袋に古い酒を入れることになってしまいます。但し、さすがに、吉田首相等の見識により、日本主導で東京裁判が行っていたなら、B、C級戦犯として罪を問われてもおかしくはない、軍部内で強硬派だった人々は外されました。その筆頭は、服部卓四郎元大佐でしょうか。

服部は、ノモンハン事件での敗北の責任者に連なる上に、絶対国防圏とされたサイパンでの戦いに本来割くべきであった二個師団要請を拒否した上に、大してメリットのない割には膨大な資源を要する「大陸打通作戦」(満州から大陸横断する「回廊」を確保する作戦)を実行させました。大局観がないのに、大東亜戦争中ほとんど作戦課長に居座っていた人物です。戦後GHQ参謀2部(G2)ウィロビー部長に気に入れられ、GHQ・日本政府の肝いりで「大東亜戦争全史」を編纂後、自衛隊の前身である警察予備隊の総隊総監(幕僚長に相当か?)に推薦されたものの、吉田首相等の反対で実現しませんでした。しかし、服部は生涯戦犯として追及されることもなく、寿命を全うしたのでした。

この他、中国、朝鮮半島に駐在経験のある、日本本土にいた職業軍人たちは、現地の情報や人的ネットワークがあるわけですから、アメリカの国民党支援に役立てられます。実際、朝鮮戦争中に米軍はこれらの旧日本軍人らのアドバイスを入れ、仁川から上陸、反攻し、形勢逆転に成功しました。また、以前お話しました通り、中国にいた職業軍人たちは、戦後直後から国民党、共産党の軍事顧問としてスカウト対象かつ日本へのアピールとして寛大な姿勢を見せましたから、まともに考えればB,C級戦犯であるはずの人々は、これまた事実上免罪されました。

さらに、米軍の日本統治、その後の親米政権樹立・存続を容易にするために協力する日本の政治家がいます。そういう人たちによる駆け引きで、米軍は天皇制の存続を約束することが日本統治をスムーズにさせることを確認しました。(ライシャワー(後に駐日大使)等、日露戦争後からハーバード大学で始まった日本学の学徒や、戦前の駐日大使グルー氏等が戦中からそう主張していましたが、その価値をGHQも再認識した形です)

この他、科学者も一部、アメリカの都合で免罪になりました。生物兵器開発のため様々な実験を満州の人々に対して行っていた731部隊の石井四郎隊長は、おぞましさ故に研究が倫理的に難しい細菌兵器に関する研究結果を米軍に提出することによって、免罪されたのでした。*加えて、戦後の帝銀事件(帝国銀行の東京にある支店で行員12名を毒物で殺害し、現金等を奪った銀行強盗事件)の真犯人は、その使用した毒物の特殊性ゆえに、731部隊の関係者とも考えられましたが、捜査当局へアメリカからの圧力がかかったため、その線の捜査は打ち切られたという疑惑もあります。**

少々話は逸れますが、科学者でアメリカの免罪を受けた人物で最も有名なのは、ナチス親衛隊(SS)に所属していたヴェルナー・フォン・ブラウンでしょうか。敗色が濃くなったナチスを見限り、早々に部下約100名を引き連れ、アメリカに投降しました。この科学者は、当時最先端の弾道ミサイル、V2ロケット開発を手掛けており、連合国が真っ先に確保したいと願うドイツ人科学者の一人でした。そして、戦争責任について問われることもなく、その後NASAに就職し、月面にアメリカ人を送ったアポロ計画のサターンロケット開発を主導したのでした。(ミサイル開発には、モノを遠くに飛ばす技術とミサイルの形に入るくらいに爆薬を小さくする技術の両方が必要です。フォン・ブラウンは、一貫してモノを遠くに飛ばす技術に執着していました)

アイヒマン裁判から考える戦争責任者像
さて、戦争責任者という言葉から、どのような人物像をイメージされるでしょうか?

1960年、イスラエルがアイヒマンを逮捕したというニュースが、世界を驚かせました。アイヒマンは、ナチス時代に多くのユダヤ人を、アウシュビッツを始めとする絶滅収容所へ移送した人物で、戦後アルゼンチンに逃亡していました。ですので、イスラエルは現地で彼を拉致(これ自体違法行為)し、戦犯として裁判にかけたのでした。

その時、そのような極悪非道をするような人物は、さぞかし邪悪な顔をしているに違いないと思われていたのに、どこにでもいそうな中年サラリーマン風な人物が登場し、人々はさらに驚いたのでした。しかしもっと世界を驚かせたのは、アイヒマンが上からの命令に従っただけの話で、自分に責任はないと主張したことでした。いくら命令だからと言って、人間は、かくも残酷になることができるのか?人間の良心の危うさを浮き彫りにした裁判でした。

なぜこのような話をしたかと言いますと、おそらく日本のB、C級戦犯と言われる人々も、アイヒマンと同様であったろうと思うからです。特別大局観があるわけでもなく、普通に出世欲を持ち、常に多数派に属するように動き、周囲の期待の正誤に疑問を持たないか、適当に良心と折り合いをつけ、目の前のミッションに凡人なりに取り組んだ姿が、透けて見えるようだからです。

「責任は、現在の40歳以上の人々はみんなある」
冷戦とそれに伴うアメリカの都合により、戦争責任を問われるべき職業軍人のほとんどが免罪対象で、名目上でも戦争の筆頭に立った天皇さえも、戦争責任を問われないとなれば、当時の人々はずいぶん白けたことでしょう。

そんな中、白洲次郎は書いています。「軽量の差こそあれ、この馬鹿げた戦争を始めてこのみじめな状態に国民を引きずり込んだ責任は、現在の40歳以上の人々はみんなあると思う。」***(1952年筆)続けて、戦後再登場した政治家たちには痛烈な批判を書いています。「殊に追放に掛かったような重要な地位にあった人に於いてをやである。それにも拘わらず、日本の救国再建は他人に於いては出来得ずという様な言動をしているのを見ると、片腹痛くなるどころか余りの無反省、余りの自己陶酔に只々あきれるばかりだ。追放の網に掛かった人が悪かったので、追放に当たらなかった人は大したことは無いという様な議論も承服し得ない。責任はみんなにある。くどい様だがその責任の軽重だけだ。重かろうが軽かろうが、必要なのは反省なのだ。」***

被害者という視点だけではなく、加害者の視点も含め、戦争を語り継ぐことを考えてはいかがでしょうか?

*岩井秀一郎著 「服部卓四郎と昭和陸軍」
**岩井秀一郎著 「服部卓四郎と昭和陸軍」、松本清張著 「日本の黒い霧」
**白洲次郎著 「プリンシプルのない日本」


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