井上幸治

美術批評。主な論文に「風間サチコ論―植民地表層の現在」(『美術手帖』第15回芸術評論入…

井上幸治

美術批評。主な論文に「風間サチコ論―植民地表層の現在」(『美術手帖』第15回芸術評論入選、2014)、「《波のした、土のうえ》論」(図録『引込線2015』、引込線実行委員会、2015)、「厄災を書くこと、聞くこと」(『息の跡』[公式プログラム]2017)など。

最近の記事

メモ(風間サチコ「肺の森」)

ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春)』の中央部に描かれた木陰の「肺」と、風間サチコ『灰の森』の比較。 ボッティチェリ『プリマヴェーラ(春)』(部分)1482年頃 風間サチコ『灰の森』2021年

    • 《二重のまち/交換地のうたを編む》における身体性について

      2月にせんだいメディアテークで開催されていた小森はるか+瀬尾夏美「ほぼ8年感謝祭 あわいの終わり、まちの始まり」展で、《二重のまち/交換地のうたを編む》という映像作品を見ました。 「旅人」という設定で四人の若者たちが、見知らぬ街(陸前高田)を訪れている姿を記録した作品でした。特徴的だったのは外部から街にやってきた若者たちと、土地の人たちの交流を目的に開催されたワークショップを土台にした記録作品であるのに、作品を構成するのは基本的に若者たちの証言だけであったことです。つまり、こ

      • 『息の跡』再考

        小森はるかの『息の跡』にはふたつのフレームがある。ひとつは「たね屋」というフレームで、基本的に作品はこの「たね屋」というフレーム内で起きた出来事を記録した映像によって構成されている。もうひとつは「たね屋」というフレームの内部にある「窓」というフレーム(=スクリーン)で、そこにはひとつの街の痕跡(過去)が消されていく風景が映し出されている。 ここで驚くのは、おそらく普通であれば、この窓の外にある現実というのは、それがどんなに理不尽で矛盾的なものであろうと、「仕方のないこと」ある

        • 「とある窓」展

          東北リサーチとアートセンターで開催中の「とある窓」展について。会場には岩手、宮城、福島の沿岸部で暮らす人たちの言葉と風景が「窓」をキーワードとした形で切り取られ、記録されたものが展示されています。まず気づくのは写真とテクストの対象(窓)に対するアプローチの違いです。テクストでは、語り手の言葉の中に聞き手の言葉や解釈が入り込まないように直接話法というスタイルが選択されているので、対象にアプローチしているのは語り手です。おそらく直接話法というスタイルが選択されている理由は、語り手

        メモ(風間サチコ「肺の森」)

          風間サチコ展「ディスリンピア2680」

          原爆の図 丸木美術館で風間サチコ展「ディスリンピア2680」が開催されています。会場に展示されている縦2.4m×横6.4mという作品の大きさには戦中の「写真壁画」(注1)を連想させるものがあり、思わず「木版壁画」と呼びたくなるようなスケール感がありますが、風間の作品の巨大化は2005年に発表された「風雲13号地」から見られる傾向であって、発表を重ねるごとに大きさを増していく巨大な画面は、観者の全体を把握しようとする欲動を嘲笑うかのように増殖していくイメージのようです。 具体的

          風間サチコ展「ディスリンピア2680」

          「ヤッホー!」中野浩二彫刻展から3Dで作品を見ることについて考える

          ギャラリーターンアラウンドで「ヤッホー!」中野浩二彫刻展(2018/4/3~15)が開催されていた。会場にはゲオルク・バゼリッツの木彫を彷彿させる作品群が展示されていたが、新表現主義を代表するバゼリッツの荒削りの作品と比較すると、石膏を使用する中野の作品から受ける印象は激しさではなく多分に静的なものであった。静的ではあるが、作品には回転や歩行、或いは壁に寄りかかるといった動きが持たされている。それらの作品が会場に配置されることで、会場全体に静かな方向性、動きが与えられていたと

          「ヤッホー!」中野浩二彫刻展から3Dで作品を見ることについて考える

          ダミアン・ハースト「Treasures from the Wreck of the Unbelievable」展

          2017年にヴェネツィアで開催されていたダミアン・ハーストの展覧会「Treasures from the Wreck of the Unbelievable」(2017年4月9日~12月3日)について。 会場に展示されていた作品の大半は、「身体」をモチーフとしていましたが、西欧の美術史が「身体」の表象の歴史であることを考えれば、「身体」がメインとなることに不思議はありません。ただ特徴的だったのは、そこにあったのが多分にヘレニズム的な身体であったということです。 何故、ヘレ

          ダミアン・ハースト「Treasures from the Wreck of the Unbelievable」展

          「二重のまちを読む」を聞く

          せんだいメディアテークの「星空と路—資料室」に展示されている、小森はるかと瀬尾夏美の「二重のまちを読む」について。瀬尾の2031年の陸前高田を舞台とした物語、『二重のまち』をテクストとした作品で、タイトルに「読む」とありますが、「黙読」ではなく、「朗読」という身体行為を前提とした音声作品です。椅子の上に置かれた4つのヘッドホーンから複数の語り手たちの声を聞くことが出来ますが、特徴的なのは複数の語り手たちによって、テクストが繰り返し朗読されることで、語るという行為自体が問題とさ

          「二重のまちを読む」を聞く

          「根をほぐす」を見る

          小森はるかの映像作品「根をほぐす」(2018年、18分)は、長編映画「息の跡」(2016年、93分)の別ヴァージョンとして制作され、せんだいメディアテークの「星空と路—上映室」で発表された作品です。作品の枠組みとなる舞台は「息の跡」と同じで、陸前高田でたね屋を営む男性の日常を記録したものですが、特徴的なのは、その後の世界を新たに撮影記録したものではなく、既に撮影されている映像を再編集することで、同じ出来事に違った視点が与えられている作品だということです。具体的にいうと、ここで

          「根をほぐす」を見る

          「語り野をゆけば」における場所の感覚

          東北リサーチとアートセンターで開催されている「語り野をゆけば」展について(2018年1月18日~2月18日)https://artnode.smt.jp/event/20180104_2544。 会場には三人の語り手たちの言葉(映像、テキスト)と、それに付随する関連資料(地図、写真)が展示されている。展覧会の特徴は「語り継ぐ」というコミュニティ空間の形成にあると思われるが、ここでは「語り手/聞き手」という関係(トポロジー)ではなく、語り手たちが語る「場所」(トポス)に注目し

          「語り野をゆけば」における場所の感覚

          ≪波のした、土のうえ≫論

          On “Under the Wave, on the Ground” 1.理解することは猥褻か 小森はるかと瀬尾夏美による映像作品≪波のした、土のうえ≫を論じるにあたり(註1)、まず始めに確認しなければならないのは、小森と瀬尾、そして各映像作品に登場する人物たちによる三者共同という制作スタイルの妥当性についてです。≪波のした、土のうえ≫は3つの映像作品によって構成されていますが(註2)、そこでは作品に登場する人物から聞き取った言葉を、瀬尾が一人称の文章にまとめ直し、それを

          ≪波のした、土のうえ≫論