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悪い意味の手慣れ感があるものは嬉しくない

【良寛は、好まぬものが三つある、とて ”歌詠みの歌と書家の書と料理屋の料理” とを挙げている】

北大路魯山人は、これを繰り返し随筆などに書いていました。夏目漱石もそう考えていたらしいです、どちらも良寛を超リスペクトな人ですが・・・

私も、その意見に完全に同意します。

いろいろな分野で、いくらでも当てはまります。

例えばジャズの演奏で「アドリブの外し方も読めてしまうような、創作性が無い手慣れ感がイヤラシイ、キャリアが長い人の演奏」を耳にするとゲンナリします。

そこにはまるで新鮮さや生命感がない。音楽への愛情も、インスピレーションも無く、表現したいものも無い、ただ漫然とした手慣れの行為から産まれた音楽は、なんとも言えない気持ち悪さがあります。

そういう演奏は「クサイ」です。

なのに、そういう「自称玄人」は、自分の仕事を受け入れない人を、シロウトだ、無粋なヤツだとバカにしたりします。

一番無粋なのは、その「玄人」さんなのに。

本当の玄人は、技術と表現が完全に一致していて、行為に必然があり、かつ、若い頃に自分が尊敬する人の音楽を聴いた時の心の震えや、楽器を弾けるようになった時の感動を持ち続けられる人です。本物の玄人はいつだって新鮮で、常に更新され続けています。

先日、自宅の近所の夏目漱石の旧宅跡地に出来た 漱石山房記念館 へ行ってみたのですが、漱石の友人の画家に対する手紙に

「私は絵は専門ではないが、絵でも観た人の気分が上がるようなものを、人生で一枚は描いてみたい。ただし、院展のような絵はまっぴらだ」(要約)

と書いてありました。

院展の日本画は、まるで着物の友禅文様のようなもので、画一的できれいで、ただそれだけの絵であり、誰に向かって何のために作られているのか良く分からないもの、という感想を(要約)述べています。

随筆でも、当時の有力美術団体の日本画や、書などは嫌いだと繰り返し書いています。当時の権威とされたものは、あまり好んでいなかったようです。

しかし、もっと古い日本の伝統的なものに対してはかなりの尊敬を持っていたようです。

そして、漱石は袴を着けるのが嫌い、演劇も嫌い。

面白いですね。

日本人だからといって、日本のものを全て好きでなければならないとか、詳しくなければいけない、ということはありませんし、日本文化の権威であっても無条件に受け入れる必要はない。

漱石先生は、むしろ現代人よりも自覚的に自由な感じです。

そのようなバランス感覚こそ、本来の日本人的だと私は思います。


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