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今、現代美術とされている分野はゲームに似ていると思う

普通一般の人々が思い浮かべる「現代美術」というものは、その時代の「前衛」のような、まだ形式や評価が定まっていないものから、先進的かつ既に社会に受け入れられ機能しているものまでを含めた「新しいものを作り出そうとする意欲の強い、実験的要素も含む、今出来の表現物の事を特に分類して現代美術と呼ぶ」・・・そんな感じではないでしょうか。

私も含めた一般社会人にとってはそれで充分ですし、それで日常生活に困る事はありません。

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何かしらの創作様式や作品が、今までの因習や価値観から抜け出し新たな地平を切り開く事に強い意図を持つものであっても、その様式が新たなスタンダードになれば、そのスタイルは一般化し伝統に回収されて行きます。その繰り返しで伝統が繋がって行きます。

それぞれの時代で、それぞれの創作分野に独自の価値観や決まり事など細かい設定があったのかも知れませんが、後世の一般社会人からすれば水面上の事は観えますが水面下の事は知らないのが当たり前ですし、それ以上必要もありませんから、例えば近代美術・現代美術などの名称は、時代や様式の大枠を捉えるための名称に過ぎないわけです。そして、それは今後もそうでしょう。

過去に現代美術と呼ばれていた作品が時代が流れ近代美術になっても、その作品が多くの人々の心を打ち続けるのであれば、それは文化的共有財産として残り、大きな経済価値も生まれます。そのような状態になると作者と作品は時代と関係無く独立した個体として認識されるようになり、例えば印象派の画家なら、印象派系の人という認識から単に作家名と作品だけの認識に変わります。時代や文化や人種の分類から個人が独立するわけですね。「極めて個であり同時に極めて公である存在」に到達するわけです。

その個体を「この画家の時代はこういう作風が流行し、そのなかの〇〇派に分類出来る」というように語る事は出来ますが、一般社会の人間としてはその作者と作品しか必要は無く「ただそれ」という存在になるのです。

普通は、その業界の人、界隈の人、あるいはマニアでもない限り、その作品の詳細を一々調べて知識と照らし合わせて作品を観たりはしないし、そうしないとその作品の価値が分からない物であれば、その作品は時間と共に忘れ去られる事でしょう。何にしても今まで残って来たものは「作品の時代背景やコンセプト云々は関係無く作品自体が物凄いもの」が殆どです。そのような作品は、ただ眺めるだけでも心打たれるものであるし、深掘りしようと思えばいくらでも掘り進む事が出来る二重構造になっています。

しかし現状「現代美術」と呼ばれているものは、上記のようにシンプルな区分で現代美術と呼ばれているのではなく「独自のルールでゲーム、あるいは競技をする“分野”」となっているように観えます。現代の最先端というのではなく「そのゲームの名称が“現代美術”という事」です。

何かしらのゲームに参加するには、そのルールを熟知していなければなりませんし、それを観戦する人たちもそれなりにルールを知らなければ何が行われているのか分かりません。「現状、主流の様式の現代美術」には最低限そのルールを知る必要があるというわけです。

ですから、そのようなタイプの現代美術作品は、ただ作品を観ただけでは何だか分からない事が多いです。

しかし、現代料理などもそういう面があるので、21世紀になってからの創作物は、そういう流行なのかも知れません。

例えば「古典料理のAは、1980年代に出てきた△△シェフの時代から□□の要素を取り入れた事でこのような流行が起こり、Bの様式が新しいスタンダードになった。その後新しい調理技術が発達し、さらにCの様式のものになったが、今日お出しするこの料理では、元になった料理とは正反対の文化を持つシェフの生まれ故郷の伝統料理の手法を合わせ、あえて〇〇する事でDという料理に再構築した。それを現代的でファッショナブルなプレゼンテーションで提供し、D+という料理に仕上げた。それは沢山の文化が交差するこの地域の特性を皿の上で表現したものであって・・・」といった具合。

現代先端料理という分野も予備知識が無いと楽しめないものが増えました。(もちろん全てがそうではありません)

その料理は味覚と嗅覚と視覚を刺激し、料理人のコンセプトを実証してはくれます。しかしその手の料理で問題なのは「その料理が美味しいとは限らない事」です。「その文脈で言うと、この料理自体を受け止める事は可能だし、斬新さは感じるけども」・・・「でも…この料理…美味いか?」・・・そこに思考が辿り着くと「料理って何だっけ?」となる。(新たな気づきを与えられたという意味では無く)

現代美術の作品であれば、作者に制作時の様々な試行錯誤と熱量があったとしても「作品自体は単に情報伝達のための装置」になってしまう事が多いわけです。それを感じた上で「芸術作品って何だっけ?」という古くからの当たり前かつ重要な問題に思考が帰着すると、個人的には「斬新さを狙いつつ返って古臭さと退屈さを振りまき痙攣している作品」をそこに観ます。

そういう作品を目の前にすると、新しもの好きではありますがいにしえの価値観に生きる私は「でもなあ・・・やっぱり料理は普通に美味しいものが食べたいなあ。何度も食べる程に美味しいと思えるものが良いなあ」「やっぱり創作品は、作品単体で自立・自律的な美を持つものが良いなあ」「…フツーで良いよ…」となってしまいます。

今主流のスタイルの現代美術だけではなく、人為と人造物の集積である文化は「全く何も知らない状態では理解出来ない事が殆ど」ですから、多少の予備知識が必要なのは当然です。

しかしそれが美術品である場合、幅広い人々に時代が変わっても受け入れられ続けるには「ルールを知らないと全く理解出来ない程に閉じたものではない事」が条件です。受け止め側の好みはあれど、なんだか良く分からないけどもスゲエな!ぐらいは一応分かるもの。芸術作品の名品はその「“なんだか良く分からないけどスゲエな”の部分が膨大で常に増幅中」のものです。

しかし、ゲームや競技の場合は、プレイヤーも観客もルールを知らないと成り立ちません。観客の立場であっても何が起こっているか理解出来なけばゲームを楽しめないのです。現状、現代美術と呼ばれている界隈は、その部分が割と厳しく設定されていて、プレイヤー程ではなくとも鑑賞者にルールを理解している事が要求されます。

そのゲームに参加するなら「“伝統的”現代美術仕草」を身に着けなければなりません。

これは私個人の造語ですが、なぜ「伝統的」と呼ぶかというと、そういうゲームになってから既に数十年経っており、その間、更新はあっても根幹的な部分は変わらないので、事実上「伝統化した様式」となっていると考えているからです。

デジタル系のゲームも、それが生まれた頃から長年経っていますからそれは伝統様式となっていると私は考えています。

最初はシンプルだったゲームが、沢山の人に攻略されると以前のものは陳腐化し、それを打開する為にどんどん複雑化して行く。それが繰り返されるなかでルールが更新され、新しいキャラクターがどんどん増え、独自の評価基準が生まれ、さらに進化して行く。

その場で勝つには、その成り立ちやルールを熟知し、その場その場でふさわしい行動を取らなければならない。

例えば・・・これは土系ポケモンで、相手が水系だからここではこういう対処をして、この場面だとアレが出てきてそれを処理してからこれを倒すとポイント加算があって・・・新しいゲームでは以前の方法で相手を倒せなくなったから、こちらの手法を使って・・・

常に情報の更新を怠らず新しい知識を得て必要な技術を磨き勝つ。

・・・今主流の現代美術もそういう分野の一つと個人的には把握しています。

時代時代で、経済も含めた社会の要請から色々な様式を持つ文化が出来上がっては消え、残るものは残った、その繰り返しが現状の社会です・・・それは美術分野に限定された事ではありません。

言うまでもなく今の・・・令和の色々な創作物もこれから時代が下れば人間の長い歴史の中の何かに分類され歴史のひとつになりますし、平成・令和にあった何かしらの様式で作られた作品が美を顕現させていればその背景は関係なく歴史に残る芸術作品とされます。(美=キレイという意味ではありません)

私には現代美術ゲームをする資質が無いので参加しませんし、古に生きる男ですのでその分野は遠目で観察しております。もちろんそれに適正があって、そこで結果を出す人たちが活躍するのは素晴らしい事です。

現代美術の楽しみは広範に渡っていて、個人的には、そのゲームの参加者たちの一部が「自分は一般人より高位の存在」という設定で変に好戦的に嘲笑を交えて「遅れた日本人は印象派でも観て喜んでりゃ良いんだよ」「現代美術のルールについて来れねえ頭の悪いヤツらは黙ってろ」なんて発言をSNSで良くしているのを観て楽しんでおります。そのような人間観察も現代美術の楽しみなのかも知れません。

もちろん、上記の「“伝統的”現代美術仕草」とは無関係の新しい創作物も沢山ありますし、そこにも優れたものがあります。

個人的には、今の美術分野は新しい事が生まれにくい突き当りに来ていると感じておりまして、むしろ美術以外の・・・科学、ビジネス、スポーツ、先端医療、IT、飲食物の開発、その他色々な「美術以外の分野」に自由で新しい創造性を感じます。漫画とそれに関わる分野は本当に物凄い幅広さと深度ですね。全ては人為と人工物ですから、時代によって華やぐ分野とそうでない分野が出てくるのは当然ですので・・・


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