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技術と表現力のお話

人の観察眼などアテにならないものだ、と私は良く思います。もちろん私のそれも含めてです。しかし、そういうブレや適当さもまた、人為と人工物の面白さと思ったりもします。

何かしらの創作物が持つ表現力は「作者の技術の分だけしか出力されない」というのは当然の話なのですが、これが意外に人々に理解されていないのを経験上強く感じます。

細かく言えば、表現分野についてだけは、ナゼか魔法の世界だと思われているというか、魔法の世界と信じたい感じというか・・・

【職人技術は長年の修練と学習が必要だけども、表現力の部分は、修練も学習も必要無く、資質と才能と気持ち・・・天からのギフトだけで出来る。だからこそ芸術なのだ!】

と、根拠無く信じてしまっている人が大変多いように思います。

分野を問わず、数十年に一人というレベルの優れた資質と才能があれば、確かにさしたる修練が無くとも一時的にはその資質と才能だけでトップを取れる事はあります。しかし長年それをキープするには、やはり修練と学習とデータ管理が必要になります。

「表現と言えども技術の分だけしか表現されない」というのは、車に例えると「時速200kmの性能の車は時速300kmで走れない」というのと同じ事です。当たり前の話ですね。これは芸術作品であっても無理なものは無理、という単純な話です。

それと、

「技術面に優れている芸術作品」だからといって、作品として良いとは限りません。(その作品の技術面は見どころがあるとは評価出来ます)

逆に、技術面ではあまり優れているように観えないけども、審美的に優れ、人々の心を打つ芸術作品があります。それは「表現面の技巧に優れている」わけです。

どちらにしても、手による技術と表現の技術、どちらか片方だけでは作品は成立しないのです。「どちらも同時に必要」です。車のエンジンだけあっても走れないのと同じ事です。

そしてこれは、例えば絵なら「手による技術面の優れた絵と表現面の優れた絵と、どちらの絵がより優れているかという話ではない」のです。その「手による技術」と「表現の技術」の重心点が、それぞれの作品によって違うだけの事です。

しかし、人は分かりやすいものが好きです。「分かりやすく技巧的なもの・手間のかかっていそうなもの」には、権威が無くとも安心して評価を与える傾向があります。技術的にラフでくだけた表現方法の作品の場合は、権威のお墨付きや社会的評価があると安心されます。技巧的な作品という分かりやすい評価基準が無い場合は、権威やお墨付きがその代わりになるわけです。

特に工芸品では技巧的なものだと安心されます。「工芸品は、他の分野よりも技術自体に美が宿る事が多い」からです。

そんな工芸品でも極上品では「あまり技巧的に観えないけども、この文様の線の美しさは絵画よりも魅力的だ」なんて事もあります。技術が超高度になると、むしろ技巧的に観えなくなる事があります。例えば正倉院の収蔵物のレベルになるとそのようなものになります。

色々書いて来ましたが、ようするに、

多くの人々は、それが技巧的に観えなくても強い感動を受けたなら実際にその作品にはその分だけの「表現の技巧がある」のに、そこを評価せず「芸術の魔法」という事にしてしまう傾向があります。それは自分が知らない技術を評価する事が出来ないからです。また、作り手自身も、実はそう思っている人が多いものです。

人は知っている物事を目にすると安心する→自分の知っている良しとされる要素のある作品である=良い作品、という風に評価するのです。

そのような「人間の感受性の特性」を理解していないと、真に新しいものに出会った時に見逃してしまいます。それは鑑賞者も作り手も同じです。

「誰もやった事のない新しい感覚を表現するのに必要な新しい技術」という物があるわけですが、それは、まだ知られていないものですから、その表現された内容も、そのための技術のどちらも、殆どの人には評価出来ません。それは「無かった事になってしまう」わけです。とても残念な事ですが、しかしそれが人間の特性でもあります。

上記の通り、殆どの人は「元々知っているものとそのアレンジの範囲」しか評価出来ませんから結局、最新の表現とされる作品の殆どは「既知の少しだけ先」のものです。ですから突然産まれた真に新しいものが殆ど理解されないのは仕方がありません。それは芸術分野に限らず、人為と人工物全般においてです。

ですから、自分が産み出した何かしらの新しい物事を社会に受け入れてもらうには、あらゆる手段を使った「解説」が必要になります。

昔の知ったかぶりの人にあり勝ちですが・・・特に創作活動の分野だと「本当に良いものであるなら、それだけで人々に通ずるものである。解説しなければならないものなどニセモノだし、自作を解説するのは野暮というものだ」と上から目線で言う人がおりますが、それは実際には非常に傲慢な態度であり、仕事人としては手抜きをしているだけなのです。

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話が少しズレますが、追加で・・・

技術と表現の問題で難しいのは、受け取る側の思考的手癖によってその作品の真価とは別の所に迷い込んでしまう事もまた、多い事です。

工芸品や建築物などのような「生活の実用品」ではない、絵画や彫刻や小説や漫画(その他色々)などの作品の場合は、分かりやすく技術面で優れたものなら無条件に最上級に評価されるかというとそうでもなく、充分に名のある歴史的巨匠の作でない場合は、不思議と技巧的な作品は、内容も奥深い作品だったとしても「技術は素晴らしいが内容が薄い」と評価され勝ちで、一見技術がそれほどでも無いように観えるけども内容が深いものは「技術的にはそれ程優れていないが内容は比類の無いほど素晴らしく深く味わいがある作品だ!」なんて実際の出来以上に褒められたりし勝ちです・・・

分かりやすく技巧的なものは、身体で言えば高身長でプロポーションが良いイケメンという感じがあるので、何か腐したくなり、逆にフツメンで凄く良い人の場合は素直に「あの人は良い人!」と言える感じに近いのですかね・・・

何にしても、人間の感受性は、作る側も受け取る側も実はそれ程広くも深くも無い、というのはいつも感じます。もちろん、私自身も含めてです。


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