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【連作短編】はざまの街で#2「玉子スープ」

(11090文字)

庭の欅が若葉を芽吹く。若葉は午後の光を浴びて明るい緑色に輝く。
志郎は縁側でいつもの座椅子に寄りかかりながら、文庫本を片手にうたた寝をしていた。
そっと近づいた来栖が、その文庫本を取り上げて、角で志郎の頭をコツンと叩いた。
「いたっ。あ、来栖さん」
「おう。相変わらずジジクサいなぁ」
「来栖さんもたまには本でも読んだら?」
志郎が叩かれた頭を撫でながら言う。
「オレはもう、ありとあらゆる知識がここに詰まってるからいいの」
来栖はそう言って、自分の側頭部を人差し指でツンツンと叩いた。
「そんなことより、お客さんだ」
来栖がそう言うと、背後から男がひとり現れて「どーもぅー」と、志郎に間延びした挨拶をした。
歳は40代半ばくらいだろうか。伸ばした髪を後ろに結び、健全なサラリーマンという感じではない。
しかし、人懐っこい笑顔で人当たりは良さそうだ。
「遠藤龍治さん、歳は、いくつだっけ?」
「46」
「だって。じゃ、あとはよろしく」
そう言って、来栖はいつも通り軽く右手を上げてから、家の前の坂を下って行った。
その来栖の後ろ姿が見えなくなるのを確認して、
「で?俺はここで何をしたら良いわけ?」
と、龍治が笑顔で志郎に訊ねる。
「何ってことはないですよ。しばらくのんびりしてください」
「のんびりねぇ。苦手だなぁ」
龍治はそう言うと、小さな庭を見回す。
「ちょっと下の商店街をぶらぶらしてきて良いかな?」
「どうぞ。夕飯は暗くなってからにするので、それまでに戻ってくださいね」
「分かった。じゃ、ちょっと行ってくるよ」

志郎はちょっと早いかなと思ったが、2階の本棚がある部屋に布団を敷いた。
それから庭に出て、洗濯物が乾いたのを確認すると縁側に取り込み、そのままそこでたたんだあと、少し考え、タンスに仕舞うのは後で良いかと、再び座椅子に座って本を読み始めた。
坂の下から聞こえる街の音は心地の良いBGMのようで、志郎は集中して本を読み進める。頬に当たる陽の光が徐々に傾いていくのを感じながら。

「おう!見てくれよ、これ!」
夕刻になって、坂を駆け上がってきた龍治が、肩で息を弾ませながら、両手に持った大きなビニール袋を持ち上げて志郎に見せた。
「どうなってんだ、この商店街は」
龍治はビニール袋をドンと縁側に置き、そのまま腰掛けて、ハアと一呼吸してから言った。
「みんな、こんにちは〜なんて挨拶してくるからこっちも挨拶したわけよ。それから、これは美味そうだね、なんて話してると、じゃ、持ってけってタダでくれちゃうんだよな」
「そうですか」
「そうですかって、お前、どの店もそうだよ。それでこんなにだよ。一体、どうなってんだよ」
「そういう街なんですよ」
「答えになってねぇよ」
龍治は釈然としない顔を見せると、靴を脱いで縁側に上がった。
「まぁ、良いや。ちょっと台所見せてもらっても良いか?」
志郎は立ち上がった龍治を見上げ、
「どうぞ」
と答えて自分も立ち上がり、龍治が持ってきたビニール袋を持って、台所に案内した。
六畳の広さで西に向かって窓があるが、その前に調理器具がぶら下がっていて光を遮っている。
「おお、随分と道具が揃ってるな。料理が趣味なのか?」
「いえ、僕が来る前からありました」
龍治はそれらの調理器具をひとつひとつ手に取って確認する。
鉄のフライパンに中華鍋、雪平鍋に大きさの異なるお玉も何種類か。
引き出しを開けると、三徳包丁の他に菜切包丁、柳刃包丁、出刃包丁もある。
ガスコンロも鋳物の業務用がふたつ。
「こりゃ、ちょっとした厨房だね。調味料もこれだけあれば充分だ」
台所の器具や調味料を確認した龍治が、後ろに立っている志郎を振り返る。
「晩飯だけどさ、何か用意してた?」
「いえ、これから考えようと思ってました」
志郎がそう答えると、龍治がニヤッと笑った。
「じゃあさ、オレに作らせてくれよ」

龍治は手際良く材料を並べ、少し眺めてから「よし」と頷いて包丁を手に取った。
玉ねぎやピーマンを手早くくし切りにしていく。
「なんだ、眺めてなくても良いよ。出来たら呼ぶから、のんびりしててくれ」
言われるままに、志郎は居間に戻ってソファに腰を下ろした。どうも落ち着かないと思いながら、テレビの電源を入れて夕方のニュースを眺める。
相変わらず戦争や紛争に、殺人などのニュース。人は苦しむために生きているのではないかとすら思ってしまう。
ここで元気になって旅立って行った魂たちも、また辛い思いをしているのだろうか。
「おーい、出来たぞー」
志郎は台所からの龍治の声で我に返った。台所に行ってみると、作業台の上に大皿に盛られた酢豚と玉子スープが置かれていた。
「すごい、これ、龍治さんが作ったんですか?」
「当たり前じゃねぇか。他に誰かいるか?」
龍治は掌を上にして、他に誰もいないだろうと言うように腕を動かした。
「そうですよね。なんだか意外だなって思って」
「正直だねぇ、ハハハ。これでも中華料理屋で修行してたんだよ。さ、ご飯よそって食おう」

「いただきます」
「おう、食べてくれ」
居間のダイニングテーブルに向かい合わせに座って箸を手にした。
「うん!美味しい!」
志郎が酢豚の肉を食べて、龍ニを見ながら感嘆の声を上げる。
「そうか、どんどん食べてくれ。ちょっと作りすぎちゃったからな」
龍治の酢豚は甘酢あんの酸味が絶妙だった。肉はしっかりと下ごしらえがしてあって、サクッとした食感を残しつつ、噛むと中から肉汁が溢れてくるジューシーさ。
さらに志郎は玉子スープを飲んだ。するとふわっとした玉子がするっと口の中に入ってきた。
「これも美味しい!」
「ああ、玉子スープな。玉子がふわっとしてるだろ?」
「してますね」
志郎はひと口ごとに味を確認するように頷きながら食べ続ける。龍治はその様子を満足した笑顔で眺めている。
しばらくして、自分の箸と茶碗をテーブルに置いた。
「ところで志郎くんさ」
「はい」
「ここはどこなんだ?」
志郎は自分も箸と茶碗を置き、龍治の顔を見て少し姿勢を整えた。
「あの来栖って男に疲れた魂を癒す場所だって聞いた」
「その通りです」
「それじゃ天国なのか?」
志郎は少し考えて答える。
「どうなんでしょうね。そもそも天国と地獄があるのかさえ、僕には分かりません」
そうか、と言って、龍治は次の質問を考えている。志郎はその様子を見ながら言葉を待った。
「生まれ変わるために魂を癒すって聞いたんだけどさ、オレの魂はそんなに疲れてるのかな」
「ここに来たということは、そうだと思います」
「じゃ、どうやって癒すんだ?」
「それは大丈夫です。ここで好きなように暮らしていたら癒されていきますから」
「好きなようにか」
龍治が部屋の中を眺めながら考えている。
「龍治さん、何か気になったことありませんか?」
「気になったこと?」
「そう、なんでも良いんです」
「うーん、雑貨屋の爺さんと婆さんかな」
「ああ、八百屋の隣の」
「そうそう。店の中の整理をしてたんだけど、ふたりとも歳だから大変そうなんだよ。それで言い合いしながらやってんだけど、まるで夫婦漫才なんだよな」
龍治はその様子を思い出して笑った。
「それじゃ、手伝いに行ってみたらどうですか?」
「オレがか?」
「そうです」
龍治が少し困った顔で考える。
「だけどさ、急に店に行って、手伝おうかなんて言ったらおかしいだろう?」
「そんなことないですよ。ここはそういう街です」
「だからどういう街なんだよ」
「まぁ、明日行ってみてくださいよ」
龍治は目を閉じて少し考え、
「わかった、明日の朝、起きてから考えるよ。よし、冷める前に食べちまおう」
と言って、再び茶碗を持った。
志郎も箸を持って酢豚の皿に手を伸ばした。

翌朝、龍治は目を覚ますと窓を開けた。二階のその窓からは庭の欅の枝の向こうに港が見える。あの港の手前に伸びているアーケードが商店街かと確認する。
「行ってみっか」
龍治は一人呟いて階段を降りた。
「おはようございます」
先に起きていた志郎が玄関の掃除をしていた。
「おはよう。雑貨屋な、行ってみるよ」
龍治は朝食はいいと断り、玄関を出た。ポケットに手を突っ込んで坂道を下りていく。坂道を下り切ると4車線の道路が横切っている。「押しボタン式」と書かれているそのボタンを押すと、すぐに信号が黄色、赤と変わり、走ってきた車が止まった。
生きていた時と何も変わりがない。本当にここは死後の世界なのかと、龍治は首を傾げながら商店街へ向かって歩いた。

商店街のアーケードに着くと、どの店も開店準備中で、あちこちからシャッターを上げるガラガラという音が響いていた。
キャスターの音をさせながら、薬屋の店員が陳列棚を店の前に出し、「おはようございます」と隣の乾物屋と挨拶を交わす。
一日が始まるその賑やかさに、龍治は懐かしいような気分になる。
「あら、龍ちゃんおはよう」
声をかけてきたのは肉屋の奥さんだった。確かに名前は言ったけど、もう「龍ちゃん」なんて呼ばれたことに、龍治は少々驚いていた。
「昨日の豚肉で酢豚は作ったの?」
「おはよう。作ったよ。志郎くんも美味いって食べてたよ」
「そうかい、そりゃ良かった」
「あの肉も美味かったよ。おばちゃんの言った通り良い肉だった」
「そうだろう。また何かあったらおいでよ」
肉屋の奥さんはそう言うと、開店準備で店の中に戻って行った。
その後、龍治が歩いていると、あちこちから声がかかった。
「龍ちゃん、おはよう」
「おはよう、なんだ、こんな朝早くから」
「おはよう、昨日はどうもね」
八百屋、魚屋、クリーニング屋と、みんな昔からの顔見知りのように声をかけてくる。最初は戸惑っていた龍治だったが、次第に慣れて、おはようと挨拶を返すようになった。
そうだ、こんな感じだったよ、あの商店街も。オレが修行した中華料理屋があった商店街。みんなこうやって声をかけてくれた。二十歳の頃から12年働いた。考えてみると、あの頃が一番楽しかったな。あの店はまだあるのかな。
そんなことを考えながら歩いていくと、雑貨屋の前に着いていた。店を覗き込むと、奥から老夫婦の会話が聞こえてきた。
「ちょっと、あんた。昨日、この鍋は奥に仕舞ってって頼んだじゃないの」
「うるせぇな、別にそこにあったって邪魔じゃねぇだろうが」
言葉は乱暴だが、いがみ合っているわけじゃないのが分かるので、龍治は思わず笑ってしまう。
「おはようさん」
龍治は店先から奥に声をかけた。
「申し訳ないね、まだ開店前、あら、昨日の。志郎ちゃんのところに来てるって言ってた」
「龍治です、遠藤龍治」
「そうそう、龍ちゃんね」
雑貨屋の婆さんと話していると、奥から店主の爺さんも出てきた。
「おう、昨日の。どうした?こんな朝早くから」
龍治はちょっと照れたように下を向いて笑顔を作ってから、二人に向き直って言った。
「昨日、店の配置を変えるんだとか言って大変そうにしてたろ?だから手伝おうかと思ってさ」
前の日にちょっと話しただけで手伝うなんて、やっぱりおかしいよな、怪しまれるよな、と龍治は思っていたが、婆さんはすぐに嬉しそうに龍治の手を両手で握り、
「助かるよ!」
と、龍治を見上げて嬉しそうな顔を見せた。
「俺たちも歳だからなぁ、助かる、ありがとう」
爺さんもそう言って龍治の肩をポンポンと叩いた。
雑貨屋の婆さんの名前は清子、爺さんは伸二という名前だったので、龍治はキヨさん、シンさんと呼ぶことにした。

「キヨさん、掃除用具はこっちで良いの?」
「そうそう、そこで良いよ」
「なに言ってるんだよ。ホウキだなんだってかさばるから、外に出そうって言ったじゃないか」
龍治に答える清子を制して伸二が言った。
「そうだったかい?」
「そうだよ、まったく。何も覚えちゃいないんだから」
「覚えてるよ、あたしはなんでも覚えてるの」
「何を覚えてるって言うんだよ」
「あんたがあたしを口説いたときの言葉。龍ちゃんに教えてやろうか」
清子がそう言って龍治を見ながら笑う。伸二は慌てて、
「やめてくれ。まったく、そんなことばかり覚えてやがって」
と怒っているのか照れているのか判らない表情で、自分の作業に戻っていった。
そんな調子でのんびりと、店の営業をしながら配置換えをしていく。
昼食は奥にある四畳半の部屋で揃って食べた。店に接している和室で、そのさらに先に二人の居住スペースがある。昔ながらの、住居と店が一緒になった造りだ。
清子が用意した昼食は、筑前煮にほうれん草のお浸しという、いかにも年寄りが作りそうな昼食で、龍治は自分の母親のことを思い出して箸が止まった。
「どうしたんだい?」
清子がその様子に心配して、龍治の顔を覗き込む。
「いや、ごめん。なんでもないんだ。たださ、家族って感じがしちゃってさ」
「何かあったのか?」
伸二も心配した表情で訊いた。
「オレはさ、両親がガキの頃に離婚してて、母親に育てられたんだけど、その母親も若いうちに死んじまったんだよ。だから、両親が今でも揃ってたら、こんな感じで飯を食ってたのかなって思ってさ」
「そうかい。こんな食事でよかったらいつでもおいでよ」
「そうだ、俺たちをここでの親だと思えば良い。いつでもここにいるからな」
「ありがとう。ちょいちょい寄らせてもらうよ」
龍治はそう言って、落ちそうな涙を、ふたりに悟られないように親指で拭った。

午後も店の配置換えは続き、閉店になる時間にやっと終わった。
「ありがとうね、龍ちゃん」
「本当に助かったよ。いつでもまた遊びに来てくれ」
「これ、持って行って」
清子はそう言うと、龍治の手を包み込むようにして何かを持たせた。
「いやいや、そういうのは…」
そう言って龍治が自分の手を開いてみると、そこには飴玉が5つばかり乗っていた。てっきり金を持たされたのかと思った龍治はちょっと拍子抜けしながらも、笑顔で「また来るよ」と言って手を振り、店を後にした。

志郎の家に戻ると、龍治はソファに寝そべって、サイドテーブルに置いた飴玉のひとつをつまんだ。蛍光灯の明かりに向けてみると、綺麗な緑色に輝いて、それはまさに清子と伸二の感謝の気持ちのように思えた。
「どうしたんですか、その飴」
志郎がサイドテーブルに、龍治のコーヒーが入ったカップを置きながら訊いた。
「お、サンキュー。これか?雑貨屋のキヨさんが今日のお礼にくれたんだよ」
サイドテーブルには、青、オレンジ、黄色、紫と色とりどりの飴が置かれていて、龍治は緑を置いて、今度はオレンジを蛍光灯の明かりに向けた。その顔があまりに嬉しそうに見えて、志郎は「良かったですね」と応えた。
「大の大人がさ、一日働いた礼が飴玉ってさ、なんか笑っちゃうよな。何か握らされた時は金かと思って、断ろうと思ったんだけどな」
「それは当たり前ですよ」
「なにが?」
「この街にお金はないですから」
それを聞いて、龍治が驚いた顔で起き上がる。
「は?どういうこと?」
「そのままですよ。この街にお金は存在しないんです」
「じゃ、物を買う時はどうするんだよ?」
志郎はダイニングテーブルの椅子に腰掛け、コーヒーをひと口飲んでカップを置いた。
「くださいって言えば良いんですよ」
「くださいって言えばもらえちまうのか?」
「そうです」
「じゃ、全部くれって言ったら、全部もらえるのか?」
「もちろんです。だけどそんな人はいませんよ」
確かにそうだ、いつでももらえるんだから、焦って独り占めする必要はないのかと龍治は思った。商店街の人たちが、ちょっと会話をしただけでなんでもくれてしまうのも納得できた。

翌日から、龍治は商店街に出かけるのが日課となった。
商店街を歩いていると、あちこちの店から「龍ちゃん、ちょっと手伝ってくれよ」と声がかかる。龍治はその全てを引き受けて働く。一週間も経つと、この商店街で龍治を知らない人間はいなくなった。
どこの店でもお礼として店の商品やお菓子などを渡されたが、龍治はそうした物より、自分が必要とされていることに喜びを感じていた。

「良いねぇ、この街は」
龍治がいつものように、ソファに寝そべりながら志郎に話す。
「気に入りましたか?」
「気に入ったねぇ。なにしろ、必要とされるってのは嬉しいもんだよ」
龍治は自分が八百屋でもらってきたバナナを、房から一本もぎとって志郎に渡し、自分も皮を剥きながら話し続ける。
「しかも金がないってことは盗む必要もないもんな。オレもこういう街で育ちたかったよ」
志郎はバナナを食べながら龍治の話を聞き続ける。
「実はさオレ、ガキの頃から万引きがクセになってたんだよな」
「万引きですか」
「ああ。ゴールドライタンってアニメ、知ってるか?」
「いえ、知らないです」
「だよな。オレがガキの頃に流行ったんだけど、みんなそのオモチャを持ってたんだよ。金色のさ、変形するロボットなんだけど、あれが欲しくてなぁ」
龍治も自分のバナナを食べながら話し続ける。

オレにはタッちゃんって親友がいてさ。タッちゃんも母子家庭で貧乏でさ、あのオモチャを買ってもらえなかったのは、オレたちふたりだけだった。
オレよりタッちゃんの方が欲しがっててな、オレはどうにかしてやりたくて、そのオモチャを万引きしたんだよ。それが最初の盗みだ。
それをオレのおじさんが買ってくれたことにしてさ、タッちゃんにプレゼントしたんだよ。タッちゃん、喜んでなぁ。宝物にするって、何度も何度もありがとうって言ってさ。
それからだよ、誰かが何か欲しがってたら万引きすりゃ良いって覚えちまった。万引きしてプレゼントするとみんな喜んでくれるんだよ。
こんなこと間違ってるって分かっちゃいるんだけど、友達が喜ぶ顔が嬉しかったんだよな。
でも、そんなことがいつまでも上手くいくわけはねぇ。最初にパクられたのは中学2年の時だ。
今までの友達には泥棒だって相手にしてもらえなくなった。だけど、そんなオレを仲間にしてくれた奴らがいた。まぁ、悪い仲間だよ。それからはもうお決まりのコースだ。盗みにカツアゲ、シンナーとかな。
もちろん高校はいかずにブラブラしてさ、シンナーの次は大麻、合成麻薬。
そんな生活を何年か続けて二十歳になった時、仲間の一人がシャブに手を出して、やりすぎで死んだ。
あれで怖くなってなぁ。オレはマトモになろうと思って中華料理屋に就職したんだよ。
どうだ、軽蔑したか?

「いえ、ここにはいろんな人が来ますから」
「慣れてるってか」
「そうじゃないです。そういう人たちもみんな、悩んで苦しんで、なんとかしたいと思いながら生きてきたって感じるので」
志郎を見ながら話し続けていた龍治が、仰向けになって天井を眺める。
「なんとかねぇ。確かにな。でも仲間が死ぬまで、本気でなんとかしたいと思ってなかったんだろうな」
「明日も行くんですか、商店街」
「いや、ちょっと疲れちまったからな、明日は休みにするかな」

翌日、昼近くまで寝ていた龍治が起きてくると、志郎は郁美の店に誘った。
「いらっしゃい。あ、その人が龍ちゃんね」
志郎と龍治が車から降りると、郁美がデッキから下りてきて言った。
「オレのこと、知ってんのか?」
「当たり前じゃない、商店街の有名人さん。はじめまして、郁美です。さ、どうぞ」
店の中にふたりを促し、奥に戻っていく郁美の後ろ姿を眺めたまま、
「おい、良い女じゃねぇか」
と龍治が言った。
「そうですか?」
デッキに上がって、いつもの席に腰掛けながら志郎が答える。
「おいおい、志郎くんの目は節穴か?そりゃ多少、歳はいってるけど、かなりの美人だぞ」
そこに郁美がお冷を持ってやってきた。
「はいはい、聞こえてますよ。そうですかって酷いんじゃない、志郎くん。それに龍ちゃんも」
「え?オレは褒めてたじゃねぇか」
「多少、歳はいってるって。歳のことは言いっこなしよ」
「ハハハ、悪い悪い」
歳が近いせいか、郁美が龍治の噂を聞いていたからか、ふたりは昔馴染みのような会話を交わす。
「さて、今日は麻婆豆腐定食のみ。良い?」
「僕は良いですよ」
「オレも、それで頼む」

「中華は専門じゃないんだけどね」
と言いながら出された郁美の麻婆豆腐はやはり美味しかった。
「美味しいよ、郁美さん」
「ありがとう」
しかし、龍治は少し首を捻った。
「あら、龍ちゃんは美味しくない?」
龍治は箸を置いた。
「いや、美味しいよ、充分美味しい。でもな、麻婆は焦がすんだよ。焦がすと風味が増してもっと美味しい」
「焦がす?」
「そうだ。まだ材料はあるか?」
郁美が頷くと、龍治は厨房を指差して「ちょっと良いかな?」と立ち上がった。
三人が厨房に入ると、龍治は調味料を確認して、中華鍋を熱して材料を炒めはじめた。手際良く調味料を加えると、
「良いか、ここだ。ここで強火でしばらく待つ」
と言って郁美の顔を見て、郁美が頷くのを確認した。
出来上がった麻婆豆腐を三つの小皿に分けて、三人で味見をした。
「すごい、全然違う!同じ材料なのに」
郁美が驚きの声を上げた。
「だろう?麻婆豆腐ってのはな、煮込み料理じゃないんだよ」
「龍治さんはね、中華の料理人だったんだよ」
「そうだったの。道理で美味しいわけね」
郁美は麻婆豆腐を食べ切って、何度か頷きながら皿を置き、龍治の顔をじっと見て言った。
「ねぇ、龍ちゃん。明日からうちの手伝いに来てくれない?」
「オレがか?」
郁美が頷く。
「まぁ、良いけど、ここまで来る足がねぇぞ」
「それなら私のバイクを使って」
そう言われて店の裏に行くと、そこには水色のスクーターがあった。
「お、ベスパか。お洒落だねぇ。良いよ、明日から手伝いに来てやるよ」

次の日から、龍治はベスパに乗って郁美の店の手伝いに出かけるようになった。
志郎は毎日ランチを食べに郁美の店に行った。もちろん、龍治の様子を見る目的もあった。
「志郎くん、参ったわよ」
志郎が、龍治が作った青椒肉絲を食べていると、郁美が困ったような嬉しいような顔で言う。
「毎日、私のパスタと龍ちゃんの中華を出しているんだけどさ、みんな龍ちゃんの中華ばっかり頼むのよ」
奥からカンカンという、龍治が振る中華鍋の音が聞こえる。
「でも郁美さん、なんか嬉しそうだよ」
「フフ、そうね。龍ちゃんが嬉しそうだから」
その日は、龍治の中華の噂を聞いた客で賑わい、最後の客が帰ったのは夕刻に近い時間だった。
「ふぅ、人気になるのは嬉しいけどさ、さすがに疲れたよ」
龍治がエプロンを取ると、倒れ込むように志郎がいるデッキのテーブル席に腰を下ろした。
洗い物を終わらせた郁美も、エプロンで手を拭きながら厨房から出てきて、龍治の隣に座った。
「郁ちゃん、ありがとな」
龍治が上を見上げたまま、郁美の方は向かずに言う。龍治の目線の先では新緑が夕日を浴びながら揺れている。
「なによ、龍ちゃん、急に」
「オレさ、夢だったんだよね。自分の女房と店を持つの。そんな気分を味わえたよ」
「そういうチャンスはなかったの?」
「あったよ。あったけどな、ちょっとしたことでダメにしちまった」
郁美と志郎は、何も言わずに龍治の話を待った。龍治は椅子に座り直し、郁美の方を向くと話しはじめた。
「オレな、中華料理屋に勤めてる時、5年付き合った女がいたんだよ。結婚して、店を持とうって約束もしてた。だけどある日な、その女が、自分の両親の30年目の結婚記念日のプレゼントを違う男と買いに行ったんだよ」
「違う男?なんで?」
郁美が先を促すように言う。
「会社で親へのプレゼントの話で盛り上がったらしい。その勢いで買いに行ったんだって言ってたよ。でもさ、オレはそれが許せなかったんだよな。もちろん嫉妬もあったさ。でもそれよりな、自分が頼られなかったのが悔しかった。だってそうだろう?そんな人生に何度もないような大事なプレゼント、オレだって選んでやりたかったよ。オレはお前に必要とされてないのか、そう思っちまったんだよな。バカだろう?」
龍治はそこまで話すと、自虐的な笑い顔を見せて空を見上げた。
「バカじゃないわよ。私だって嫌だな」
志郎と龍治は、そう言う郁美の顔を見つめた。
「だってさ、そんな大事なプレゼントを、ふたりで楽しそうに選んでたって想像したら、私だってキーッてなっちゃう。龍ちゃんバカじゃないわよ」
「ハハハ、ありがとな。でもさ、それでオレ、なんかもうどうでも良いやって気分になっちまってな。別れようって言ってたよ。それであいつが嫌だって言ってたら続いてたかもしれねぇけど、すぐに分かったって受け容れたたんだよな。まぁ、面倒なやつだって思われてたんだろうな」
「気持ちは分かる。龍ちゃん悪くないよ」
「オレが悪いのはここからだよ」
龍治はテーブルに肘をついて、それまでとは違う真剣な顔で話しを続けた。
「辛くてな、どうしようもなくなってな、ついにシャブに手を出した」
志郎と郁美はその顔を見つめたまま黙った。
「若い頃にクスリで忘れることを覚えちまってたからな。それからはもう、転げ落ちるばかりよ。店には行けなくなる、シャブを買う金もなくなる、そしてパクられる。ムショに入って出て、またパクられての繰り返しだよ。気がついたら死ぬまで10年以上そんな暮らしだった」
郁美はそっと、テーブルの上の龍治の手を握った。龍治はその郁美の手を、愛おしそうに見つめてから、志郎の方を向いて言った。
「志郎くん、魂が癒されたら生まれ変わるって言ったよな?」
「はい、そうです」
「なんか、そろそろ癒されたような気がするよ」
そう言うと、龍治は立ち上がった。
「郁ちゃん、ふわっとした玉子スープの作り方、教えてやるよ」

小さな雪平鍋を使ってスープの味付けをする龍治の後ろで、郁美と志郎はじっとその手元を見つめている。
「味付けしたら片栗粉だ。これくらいのとろみで良い」
「うん」
「そしたら強火のまま、ゆっくりと細く溶いた玉子を流し入れていく」
綺麗な黄色のラインがスープに落ちると、ひらひらと玉子のヒダが広がっていく。
「全部流し入れたら、ゆっくり5秒数えて火を止める。あとは余熱でオッケーだ。どうだ、覚えたか?」
「うん、ありがとう、龍ちゃん」
郁美が笑顔で頷いた。
龍治はスープをふたつのカップに分けて、郁美と志郎に渡した。ふたりがそのカップを受け取り、ひと口すすって顔を上げると、もうそこに龍治の姿はなかった。
「もう!美味しいって聞いてから行けば良いのに!」
玉子スープに郁美の涙が落ちた。志郎はその気持ちを共にするように、郁美の背中にそっと手を置いた。
「お疲れさん。無事に生まれ変わったようだな」
いつの間に来ていたのか、来栖が厨房に入ってきて言った。
「あれ?オレの分のスープは?」
「ないわよ」
「なんだよ、少し分けてくれよ」
「ダメ」
郁美が口を尖らせて、スープカップを来栖とは逆の方に隠すように抱える。
「それにしてもさ、郁ちゃん」
「何よ」
「なんか、本当の夫婦みたいだったぜ」
「え?どこで見てたの?」
郁美が驚いた顔を向ける。
「俺はなんでも見えちゃうの。それにしても妬けたなぁ、郁美ファンとしてはさ」
「あら、そうなの?」
「いっそのこと、俺と本当の夫婦にならねぇか?」
「ならないわよ」
「あちゃー、必要とされてねぇか」
頭を抱えておどける来栖を見ながら、志郎が言う。
「必要とされることも大切だけど、必要とすることも大切なんだね」
「そうね、龍ちゃんを見てたら、大切な人はもっと必要としなきゃって思ったわ」
「俺はふたりを必要としてるぜ」
ふたりが来栖を無言で見つめる。ややあって、志郎が口を開く。
「じゃ、僕は帰りますね」
「うん、私も片付けしよう」
「あれ?ちょっと冷たくない?」
夕日が西の山に隠れると同時に、港の向こうに登ってきた満月が、三人の様子を眺めていた。


つづく

と思う


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