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【記憶の街へ#5】母親の愛と祈り

彼はゴーグルと呼ばれていた。
なぜそう呼ばれていたのかは覚えていない。
ボクの通っていた中学校には知的障害児の複式学級があり、ゴーグルはその教室の生徒だった。
人懐っこく、休み時間の廊下でボクたちの顔を見ると、手を振りながら駆け寄ってきた。
その度に「ゴーグルが来たぞ〜」などと言って笑いながら逃げてからかったりしていた。

ボクたちのクラスは、遠足などのイベントがあると、複式学級の生徒が一緒に行動することになっていた。
グループ分けがあるようなイベントだと、どこかのグループが複式学級の生徒の面倒を見なければならない。
ボクたちにとってそれはババ抜きのババをひいたような感覚で、みんな避けたがっていた。
遠足か何かのイベントで同じグループになったSという女子は、ゴーグルに好かれてしまい、廊下で会うと「Sさ〜ん!」と追いかけられるので、必死に逃げていた。

季節は初夏、天気の良い日曜日だったと思う。
ボクは友達二人と自転車に乗ってどこかに向かっていた。
学区内のはずれの住宅街の中をのんびり走っていると、綺麗な芝生の庭にガーデンセットがある、裕福そうな庭で水撒きをしている母と子が目についた。
それはゴーグルだった。
彼はすぐにボクたちに気がつくと、手を振りながら家の門まで走ってきた。
いつも通り逃げようと思ったが、後ろにいる母親の手前、そんなことはできずに彼の家の門の前で止まった。
「ここ、お前の家?」
「そうそう!僕のうち!」
そんな見れば判るような会話を少し交わしたと思う。
「それじゃな」
ボクたちが言うと、ゴーグルが「バイバーイ!」と言いながら力強く手を振る。
その後ろで母親が、深々と頭を下げた。
ボクたちは母親に頭を下げ、門を離れる。
ペダルを漕いで少し進み、ずっと続いているゴーグルの声にもう一度応えようと自転車を止めて振り返った。
するとゴーグルの後ろで、母親が頭を下げ続けていた。
その姿にボクたちは動きが止まった。
みんな感じていたと思う。
母親から伝わる愛情と祈りを。

その何気ない日常のワンシーンは、今でもボクの胸に刻まれている。

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