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【ショートショート】逃げる夢 #シロクマ文芸部

お題:逃げる夢
1399文字

逃げる夢を追いかけて、気がつけば知らない町にいた。
ここはまだ夢の中なのか。

妻が死んで1ヶ月が経った頃、私は妙に鮮明な夢を見た。
頬で受ける木漏れ日の暖かさまで覚えている。
たくさんの椿が咲くその道を、私は妻と手を繋いで歩いていた。
「椿のトンネルだね」
妻は張り出した枝に咲いた椿の花たちを眺めながら言った。
濃い緑の葉と、鮮やかな赤い花、雄しべの黄色だけの世界。私を見上げる妻の顔は若かった。
緩やかにカーブする椿のトンネルを歩いていくと出口が見えた。しかしそこからは強い光が差し込んでいて、その先がどうなっているのかは分からない。
妻は無言で私に微笑み、少し強く手を握ると、迷いなく光の中へ歩き出した。

眠りから覚めると、それが夢だったことを悟った。しかし、頬に受けた木漏れ日、妻の手の感触がハッキリと残っていて、私は少しだけ泣いた。

それから私は毎晩、妻と椿のトンネルを思い浮かべながら眠りについた。
すると椿のトンネルは頻繁に現れるようになった。
私はその入口に立っている。そして椿のトンネルの中には妻がいる。私は妻に向かって歩き出そうとするが足が動かない。
その様子を見て、妻がゆっくりと笑顔で首を振ると、まるで逃げるように椿のトンネルは遠ざかって消えていく。
そこで毎回のように目が覚めるのだ。

しかしこの日は違った。
椿のトンネルが遠ざかって行っても目が覚めず、私の足は前に動いた。
ゆっくりと右足、左足と確認するように歩き出し、顔を上げると見知らぬ町にいた。
そこは海辺の町のようで、船の汽笛が聞こえてきた。無意識に音のする方へ足を向けると、程なく桟橋にたどり着いた。
桟橋には遊覧船が横付けされていて、人々が乗り込んでいくところだった。私は吸い寄せられるようにその船に乗り込んだ。
船は青空の下、穏やかな波をひとつひとつ掻き分けるようにして進み、次の港にたどり着く。
そこは小さな島のようだった。降りていく人たちを眺めていると、妻の後ろ姿を見つけた。気に入っていたベージュのワンピースにブラウンのカーディガン。間違いない。
私は慌てて妻の後を追うように船を降りたが、桟橋に降り立つと妻の姿はなかった。
港を出て、私はあたりを見回しながら、当て所なく歩いた。どこかに妻がいるはずだ。
10軒くらいしかない小さな住宅地を抜けると、道はなだらかに丘へと登っていく。つるの絡んだ常緑樹の森と竹林に鳥のさえずりが響く。
少し強い風が吹いて、竹がぶつかり合ってカタカタと音を立てた。
分かれ道があり、左に折れる道の先を見ると、鮮やかな赤が目に入った。
そこはあの椿のトンネルだった。
私は思わず走り出した。そしてその入口には思った通りに妻がいて、私を見ながら微笑んでいた。
私は椿のトンネルに足を踏み入れた。そして妻の手を掴んだ。
逃げなかった。夢は逃げなかった。
私は妻と見つめあったが、声が出なかった。その代わりに、もう一度強く妻の手を握ると、妻も強く握り返してくれた。
そしてそのまま、私たちは椿のトンネルの奥へと向かった。
あの時と同じように、暖かな木漏れ日が頬に感じられた。

「オヤジさ、さっき急に強く手を握ったんだよね」
「そう」
看護師が老人の体から心電図のケーブルや点滴を外していく。
男は小さな娘を片手で抱え、もう片方の手で妻の手を握った。
「見て、お義父さん、笑っているみたい」
「そうだね」
カーテンの隙間から、午後の日差しが老人の頬に差していた。

終わり


久しぶりにシロクマ文芸部に参加させていただきました。
そしてさらに久しぶりの創作。
ここのところバタバタしていて、書くモードになれていなかったなー。


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