タイプ8のNeについて

昨日、夕方さんと1と8の違いについてスペースをしたのだが、そこで私は自分のNeを自覚することになった。それまでは全く自覚がなく、タイプ8は心理機能だとNeだと言われていることがいまいちよくわかっていなかった。

例えば、私が第三者の立場からいじめの仲裁に入ったとする。
まず状況の確認をして、原因を追求する。いじめる方はもしかしたら親子関係がうまくいかず、傷つけられたことにより誰かを傷つける人になってしまったかもしれないから、その場合いじめていた方のケアも必要だと考える。
いじめられていた方にも原因があるかもしれないから(善悪や感情を抜きにした要素)、心の傷をケアしつつ、一人で歩けるようになる方法を一緒に考える。

誰かをいじめていい理由はない。それは言わずとも当然だけれど、そうなってしまうこともあるという前提が私の中にある。

ただし具体的な暴力が何度も発生していた場合はその限りではない。それはまた話が変わってくる。

その人が一人で歩けるようになる方法をあれこれ試行錯誤し、何か決めつけるようなことはせず、本人の意思を尊重する点が非常にNe的だと夕方さんはおっしゃっていた。
この場合はこうする、自分はこうすべきだと思う、みたいな基準が自分の中にはない。その子を見て初めてどうするか、その子にとって何がいいか考えるといった感じ。理想ではなく、目の前の現実を認識している。

中立の場合はそう振る舞うだろうが(もしいじめる相手が酷すぎた場合はその限りではないかもしれない)、身内なら問答無用で味方する。1にとってはこれが少し理不尽に見えるらしいが、私はちっともそうは思わない。
自分が何よりも愛し、そして自分を大切にしてくれている存在を他の人同様に扱うのは、むしろ失礼だと感じられる。

道徳的な問題を見かけたとき、普段から自分なりに向き合うように心がけてはいる。そこだけ見て私は自分は実は1なのではと思ったりもしたが、細かに見ていくのではなく、自分はこう感じるああ感じる自分ならどうする?(Fi)当事者はこう感じていたかも、やっぱり違うかも、論点はここでなぜそうなったのかという感じなので、1ではないだろうと判断した。何よりまず感情的な反応がくることが多い。
可能性を広げる感じで、絶対にこれという答えに辿り着くわけではない。当事者の気持ち、論点や因果関係のどちらにも意識を傾けているとは思うが、やはりまず反応するのは人に対して。ここが物事であれば1なのだろうと思う。人の気持ちを汲み取るのが難しく、合理的に物事を解決せねばと思うのは合理型の特徴。

道がなければ作ればいい。目の前に岩があるなら壊して進め。素でこの思考である。タイプ8がブルドーザーと言われているのはこれか。
1は上に理想があり、そこを目指す感じらしい。8は空を飛びたいと思えば飛べる、可能性を信じろといった感じ。

類型のスタンスに対してもタイプが滲むかもしれない。公式の情報を何より大切だと考え、無意識のうちに絶対視していることさえあるのがタイプ1。Teが強すぎると公式の情報をいつの間にか自分の意見だと思いこんでしまったり、公式という基準から外れた人を認められないと思ってしまったりすることも。内省がうまくいかず、どのエニアのどの部分が自分に当てはまるのか、もしくはそうではないかがわからないこともあるかもしれない。

【5/1追記】↑嘘つきましたこれ6てす。自分の意見こそあるが、事実を過度に気にする傾向は1にもある。理由なくそうなのが1や6、客体にアプローチをする際にそうするのがソシオTe。

統合の傾向が強まるにつれ、公式の情報という事実よりもそれを元にどう自分が考えるか、どう発想を広げるかを大切にするようになる(Ne)。
一方の8は自分がどう考えるか、他の人はどう考えたのかを重視する。私は公式を絶対視するという視点が抜け落ちていた。情報の正誤性よりも、それが何に使え、どう役立てられるかを重視。そもそも全員に考える権利はあるのだし、考えようとした人の意志を評価する。情報を元に発想を広げ、自己の見解を持つことを大切にしている。5と共通の性質かもしれない。

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