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映画『PERFECT DAYS』のimperfectな(パーフェクトでない)ところ

『PERFECT DAYS』の先行上映を観に行った。
人生で初めて、ひとりで映画を観て、人生で初めて、公開前の映画を観た。

自分が幸せか、孤独か、満ち足りて自信満々か、この映画の感想によって測れると思いました。美しいととらえるか、物寂しいととらえるか。

ひとりで映画に行ったので、終わってから目を合わせる人がいなかった。一緒に息をつく人がいなかった。だからか、映画館ので鳴る音ひとつひとつが、自分も映画に入り込んだみたいにくっきり聞こえた。椅子が元の位置に戻るきいぃばたんという音、カバンをつかむわしゃっという音、コーラのカップの中で水が揺れる音。そして観客のひとりの女性の髪質がくっきり見えた。
感想を消化しきれず、自転車に乗らず押して歩いて帰った。

わたしはこういう映画が好きだ。
今まででいちばん好きだった映画は、これだ。

カズオ・イシグロ原作というひいき目があるかもしれないけれど。
何も起こらないけれど、何が起こっているか主人公の視線でわかる。そういう映画。

回収されないストーリーがいくつもあって、「あ、映画ってこれでいいんだな」と思った。人生と一緒じゃないかと。そもそも起こる物事にすべて意味や答えがあるのが人生じゃないしなと、映画を観るたびに思っていた。という違和感を感じていたことに、この映画を観て気がついた。

「インパーフェクト」と書いたのはそういうことだ。すべてのピースがそろってはまってかちりと終わる映画ではない。想像の余地がある。
自分は、小説が好きで、映画はあまり観なくて、それは頭の中で想像しながら物語を進めるのが好きだからだと思っていた。映画は情報がtoo muchだと思っていた。でも、映画もこれでいいんだと。

観る人の心の状態によって、感想も異なると思う。

幸せな人しか、観れない映画だ。

最初はそう思った。

これは孤独や貧乏が「ノンフィクション」たり得ている、もしくは日本の下町の光景が非日常な外国人には、「ノスタルジックで美しい」映画になると思う。観終えた直後、わたしにとって『PERFECT DAYS』は「美しい」映画だった。

でも少しでも将来に不安があったり、孤独への恐怖があったり、いま実際に孤独だったりする人にとって、この映画はある種、リアリティがあって恐怖なんじゃないかと思った。

自転車を押して歩きながら、誰かに感想を話したかった。でも横に誰もいない。両親なんて、バラバラに暮らしているから毎日そんな生活をしているにちがいない。とか、考え出したら実際に切なくなってきた。両親にこの映画を勧められるか、自信がない。

でも、誰にだって満ち足りて最強な気分になるときもあるし、孤独の影を感じて恐ろしくなることがあると思う。だから、今のあなたはどうか?と、聞いてみたくなる映画、なのかもしれない。


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