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地球最後の日に食べるものがおでんの具ひとつしか選べなかったらなんの具を選ぶか

先日、某所で時間を潰していたときのこと。
ふと前を見るとおでんを宣伝しているポスターがありました。


おでんかぁ。

1人暮らしをしてから作らなくなったし食べなくもなったなぁ…などと思っていたら、ふとおでんが食べたくなりました。

そのポスターには宣伝だけでなく様々なおでんの具も紹介されており、私は若干の小腹を空かせながらぐるぅっとその具を見回しました。


大根。
ちくわ。
こんにゃく。
卵。
里芋。
焼き豆腐。
かまぼこ。
牛すじ。
車麩。


大体こんな感じのラインナップだったと記憶しています。

そのとき、小腹を空かせながら私は思いました。「地球最後の日に食べるものがおでんの具ひとつしか選べなかったら、私はなにを選ぶだろう?」と。


地球最後の日になにを食べたいか、ではありません。おでんの具でなにが好きか、でもありません。

「地球最後の日」というある種の究極の状態において、おでんしか選択肢がないのです。その中でひとつしか具は選べない。

…私だったらどうする?なにが食べたい?なにを選ぶ?


まず、先程のポスターにあった具のラインナップをいくつかのブロックごとに分けました。その中で「そそられるもの」「省いてもいいもの」に分けていき、各ブロックのそそられるもの同士を戦わせていくのです。


ひとつめのブロック。大根とちくわとこんにゃく。
うーん、大根は割と省けるかも。ちくわはそそられるから候補。こんにゃくはなくても平気かな。というわけでこのブロックはちくわが代表。割とさくっと決まりました。


次のブロック。卵と里芋と焼き豆腐。
卵はなくても平気。里芋は…うーん、別におでんじゃなくてもいいかな。焼き豆腐は……食べたい!ここは焼き豆腐が代表!


そして最後のブロック。かまぼこと牛すじと車麩。
かまぼこはそもそも私自身がおでんを作るときに入れないから問題なし。牛すじは苦手だから食べない。
よって車麩です。消去法ではありません。車麩大好きです。


各ブロックから、ちくわと焼き豆腐と車麩が代表であがってきました。この3つの中から私の「地球最後の日におでんしか食べられなく且つひとつしか選べないときに選ぶ具」を決めるのです。

まずちくわと焼き豆腐を自分の中で「どっちがいい?」と問うてみます。
正直、「どっちも選ぶのはだめですか」というくらいどちらも魅力的なのですが、10秒ほど悩んだ末ちくわを選びました。
焼き豆腐もおいしいですが、なんていうかおでん化したときはちくわの方が魅力的だったというか。


そしてちくわと車麩を比較します。ついでに焼き豆腐と車麩も比較します。
このときは即決でした。私ちくわがいい。つまり私は地球最後の日のおでんではちくわが食べたい。

というか、「おでんの具の中で、私はちくわがかなり好きなんだ」ということにこのとき気付き、おぉーと自分の中で感動したことを覚えています。

おでんの具は割となんでも好んで食べていたつもりだったんだけど、いざ自分自身に問うてみたら、一番好きな具はちくわだったという。

確かにいつも作るときは入れていたし、率先して食べていた記憶があります。

自分でも知らなかった自分を知ることができて、ちょっとだけ感動しました。これからはもっとちくわに目を向けてみよう。おでん以外でも。


ちょっと話は逸れますが、おでんを「おいしい」「楽しい」と思うようになったのは、30歳を過ぎた頃だったように思います。「自分でおでんを作るようになってから」と言い換えても問題ないような気がします。

実家でおでんが食卓に出てくることは割とあったのですが、小さい頃、若い頃っていまひとつおでんにときめくことができなくて。親がおでんを楽しんでいる様子を「なんでなんだろうなあ」と思いながら見ていた感じでした。


それが30を過ぎたあたりから、「うまく説明できないけれどおでんめちゃくちゃおいしい」と感じるようになりまして。あつあつのおでんをはふはふしながらつつく時間を楽しいと感じるようになりまして。

よく「年を重ねると煮物のおいしさに気付くようになる」なんて言いますが、それと似ているのかなーなんて思っています。


今は1人暮らしなので、おでんを作る機会も食べる機会もないのですが、いつかまた誰かと一緒に暮らすようになったら、おでんを作って楽しく食べたいなぁ…なんて思っています。そんな素敵な人生が来たらいいんですけどね。


というわけで、「地球最後の日におでんの具ひとつしか選べなかったらなんの具を選ぶか」という問いに対する私の答えは「ちくわ」でした。

ちなみにこれが「地球最後の日になにを食べたいか」まで回答範囲を広げることができるのだとしたら、私は迷わず「母の作るサンドイッチ」と答えます。

なんなんでしょう、母の作るサンドイッチのあの、唯一無二のおいしさは。
私も母もこれから年を重ねていき、母がもしサンドイッチを作ることができなくなったとしても、私は一生言っているような気がします。

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