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12月の駄文

考えがまとまらずグルグルしているが、少しだけ思うことを書いてみようと思う。

現代音楽が進歩主義的だというのは当然でそれは音楽自体が社会とコネクトしているからであって、移動手段、メディア、テクノロジーも前はなかった技術が開発され、人々の生活がだんだんと良くなっていくような錯覚は同時代に生きる人たちの多くが共有している感覚だと思う(それが行われた結果今どうなっているかというと、環境は破壊され、人々が理由なく殺戮される、殺伐とした世の中になっている)。

人が何を見ているか、でとらえられる文脈は異なると思うけれども、私が見てきた中で、少なくとも上記のような共通感覚は持っている。(実際は時代を超えた繋がりも多くあって音楽の歴史って実は放射線状に広がっているんじゃないかとも思うけれども)確かに過去から未来に向かって使える技術が増え、特に音色やノイズを含めたオーケストレーションについては拡張傾向にある。そして今何がどうなっているのか。それを思考するのに「新しい」ということについてもう少し考えてみようと思う。

現代音楽が袋小路だとか飽和状態だと言う人はいて(わたし自身は思っていない)、それっていうのは一つ「新しい」問題がある気がしている。「新しい」は固定的な共感覚というよりはコンテクストありきで、赤ん坊にとっては全てが新しいし、多くを知っている大人にとって「新しい」を探すことのほうが難しい。そして、この「新しい」自体の感覚がここ最近変化している気がする。「新しい」「新しくない」が元来知識ベースだとして、これは昨今の「多様性」とはベクトルが逆なのかもしれないとも思う。

西洋の音楽家たちが異文化の音楽を発掘しそれを利用し、西洋になかった「新しさ」を自身の音楽に取り入れていた時代に、その「新しさ」は「音の新しさ」であり、その土地で思考されている、特定の地域の文化の価値観がどれだけ理解される余地があったのかはわからない。その音楽が成り立つまでになされた歴史的経過や環境的理由、宗教の問題など、それら全てを理解しているとは言い難い。そもそも自分が生きてきた文化圏の「当たり前」をまるっと削除して新しい文化をインストールするには、「異文化」は大きすぎて飲み込むことが出来ない。それを飲み込めるまで小さくして、自分の技術に落とし込むくらいが限度である。一部の優秀な音楽家がその土地に住み、現地人以上に文化を理解し、それを創作に利用することがあっても、多くの音楽家にとって「異文化」というのは、「多様性」の理解というよりは魅力的な「新しさ」であったと思う。

わたしが実際に欧州で活動している中でも、文化ほど大きいものではないにしても、新しく開発した音は驚くほどの早さでコピーされ、場合によっては開発者ではない誰かが発表し、第一人者として辞典に載るような場面を度々目撃した。こういった「新しさ」のいたちごっこは、2000年頃まで主流になっていたように思う。楽器の奏法を開発することも楽器以外の非楽器やテクノロジーを使って聞いたことのない音響を作り上げることも、その流れの中では極自然な成り行きであったとも思うし、その中に「異文化」もそうだし、隣接する他芸術ジャンルもその中に組み込まれて、拡張する音響の歴史の一つとして西洋現代音楽の文脈を作り上げていた。

そして、今「多様性」が叫ばれるようになって、この「音響の新しさ」は一旦影を潜めているような気がしている。一つは、進歩主義的な歴史に対して社会が疑問を持ち始めていること。音楽は社会と結びつきがある。この大きな流れに対してどういった批評的観点で音楽を作るのか、考え始めている音楽家も少なくないと思う。単に音響が新しいだけではない何かを求め始めている。もしかしたら作曲家が創作だけでなく論文を書いたり、音楽を思考としてとらえていることも関連しているかもしれない。例えば、Dmitri Kourliandskiの「Hypermusic」を聞いても音響的な新しさは全くないし、

Peter Ablingerの「18 Scales」にもないわけで、

これらの音楽を面白いと思う感覚は、例えば初めてクセナキスを聞いたときの感動とは違うものだ。圧倒的な音響的な驚きから、「音楽を聞く」という姿勢そのものへの投げかけに変化しつつあると思う。その上で「多様性」がどう機能しているのか。

「多様性」というものが注目されるようになると一時的にそれらは、ある種の価値観の中では「低質」なものであると思われがちである。それはそこにある尺度の中で価値があるとされてきたものが抜け落ちているからなんだと思う。一つのコンテクスト上では、それが非常に古臭く聞こえるのも理解できる。「多様性」が前時代的な価値観で使い捨てされるのではなくて、古さが提示している、ある種のマジョリティ側の価値観が変わらなければ、「多様性」が多様である意味はないだろう。そういったことを踏まえると「真の新しさ」は簡単に売ったり買ったり、コピーしたりコピーされるようなものではなく、身体的なレベルでインストールされる感覚なんだと思う。自身の価値観がゼロから変わるような体験を生みだすことなんじゃないかと思う。

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