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140. 最も近く、最も遠かった平昌オリンピック

#悔しかったあの試合 #ライズTOKYO

2016年9月1日。僕はラトビアのリガという街にいた。そこでは、2018年に行われる平昌五輪出場権をかけた最終予選が行われていた。僕は日本代表としてこの大会に参加し、そして、人生で一番悔しい経験をすることになる。

近づいて初めて、その遠さを知る

この大会には、日本、ドイツ、オーストリア、ラトビアの4か国が参加していた。この中でリーグ戦を行い、上位1チームが五輪への切符を手にする、というものだ。

まず、五輪予選メンバーに入ることになった経緯を書こうと思う。

当時僕は、チェコのクラドノというチームでプレイしていた。そして、現地での活躍が評価され、苫小牧にて同年6月に行われた五輪予選メンバー選考会に呼んでもらうことができた。この合宿は陸上トレーニングのみで、氷上でのセッションはなかった。合計40名ほどが参加していたと思う。

その後、7月に再び行われた最終選手選考会合宿。これは主に、2チームに分かれ紅白戦を数試合行うという内容だった。この紅白戦での結果やプレイ内容が、メンバー選考の主な評価基準となる。

僕にとっては、はじめての代表選考という舞台。小さい頃から見ていた国内のトップ選手と一緒にプレイする感覚は本当に不思議なものだった。当時僕は、20歳になりたてでチーム最年少の一人だった。一緒に組んだラインメイトのおかげもあり、僕は紅白戦の全試合でポイントをすることができ、この合宿では両チーム合わせても最大のポイント数を記録することができた。

しかし、後日僕が代表チームから受けた連絡は、代表メンバーから落選したというものだった。正直なことを話すと、紅白戦でもかなり活躍できていた中でメンバーを外されたことに関しては、すぐに納得はできなかったが、それは自分ではどうしようもないことだった。

当時の僕は、バックアップ要員(補欠)として、登録されていた。

僕は、7月の代表選手選考会が終わったその日の夜に、カナダのバンクーバーに向けて出発していた。これは、最初から決まっていたことで、新シーズン開幕に向けて3週間ほど現地のホッケーキャンプに参加するためだった。

バンクーバーでのキャンプは順調に進んだ。陸上・氷上のどちらのトレーニングも質の高いもので、自分のコンディションが上がっていく感覚があった。キャンプもいよいよ終盤に差し迫った時(最終日の前日夜だったはず)、日本アイスホッケー連盟のスタッフの方から急遽Facebookメッセンジャーを通して連絡がきた。

「本メンバーの中から怪我人が出たため、優希が代わりに五輪予選代表メンバーに追加召集された」

という内容だった。まさかこんなことが起こるとは思いもしなかったが、日本代表選手として、五輪最終予選を戦うことができると思うと、胸が躍った。

代表に呼ばれたことで飛行機の予定は急遽変更になった。バンクーバーから一度日本に帰国し、その次の日に羽田空港に向かい、代表メンバーのチームメイトたちと合流し、事前合宿に向けてドイツに入った。

代表チームの予定は、2週間ドイツにて事前合宿を行い、その後に大会地であるラトビアに入るというものだった。ドイツ合宿中には、地元のプロチーム(1部所属)と練習試合をいくつか行ったが、日本代表チームはすべて敗戦という結果に終わった。

僕は、1セット目のフォワードとして出場していたが、1ポイントも残すことはできなかった。

そんな中、チームは2週間のドイツ合宿を終え、8月29日に決選の地、ラトビア・リガに入る。29日、30日、31日で調整練習を行い、9月1日を迎える。

いよいよ五輪予選1試合目、対ドイツ戦だ。

今回の大会に参加していた各チームの世界ランキングは、ドイツ13位、ラトビアは10位、オーストリアは16位だった。日本は当時20位で、すべて格上チームとの対戦だった。つまり、今回の予選は相当厳しい3試合になると、誰もがわかっていた。

いよいよ開幕した五輪最終予選。初戦ドイツとの試合は、終始圧倒され0対5で敗戦。世界トップチームとの実力の差を目の前で見せつけられる形となった。「5点に抑えた」といえば健闘したようにも見えるが、実際は日本代表のゴールキーパー、福藤豊選手が素晴らしい活躍をしてくれたから5点に抑えることができたわけで、実際には日本代表は9割以上攻められっぱなしだったと思う。シュート数も、30本ほど多く打たれていたはずだ。何もできない自分が本当に情けなかった。

次の日に行われたラトビア戦。日本代表は1対3で負けた。この2連敗の時点で、日本代表の五輪出場の可能性が途絶えた。

そして、このラトビア戦こそ、一生忘れることはないであろう、自分の人生の中で最も悔しい試合だ。僕は、この試合でゴールの決定機を2回外した。1回目はキーパーとの1対1の場面。スピードに乗って味方からいいパスをもらい、敵をかわしてあとはキーパーとの勝負だった。右から左に大きくキーパーをかわしてシュートでを放った。「入った!」と思った。確実にキーパーを置き去りにできていた。だが、最後の最後にキーパーの手がパックに伸び、パックがゴールラインを超えることはなかった。(この記事のトップ写真がその瞬間だ。)

2回目のチャンスは、試合終盤に訪れた。ゴール裏にいる味方からパスをもらい、ゴール前でフリーの状態でシュートを打ったものの、パックは惜しくもポストにはじかれ、ゴールとはならなかった。

もし、この2回のチャンスを決めていたら。

もし、あの時ゴールネットを揺らすことができていたら。

きっと、試合展開は大きく変わっていただろう。自分が決めていれば、ラトビアに勝っていたかもしれない。そしたらまだ五輪出場の可能性が残っていたかもしれない。

自分が決めていれば…!

試合が終わった時、今まで味わったこともないような後悔の念に襲われた。「いい経験になった」なんて微塵も思わなかった。とにかく自分がチームを勝利に導けなかった責任を強く感じていた。これほどまでに悔しい思いを抱いたことはなかった。

やれたからこそ、チャンスがあったからこそ、それをものにできなかった自分に腹が立った。


4日に行われた最終試合、対オーストリア戦。
この時点で、両チームとも五輪に出場できないことは決定していた。だが、大切な試合であることに変わりはなかった。

全力を尽くしたものの、試合結果は0対3で敗退。日本代表は3連敗で五輪予選を終えた。

この時五輪への切符を手にしたのは、ドイツ代表だった。(ちなみにドイツ代表は平昌五輪本戦で銀メダルを獲得した)

五輪への特別な思い

五輪に出ることは小さいころからの一番の目標だった。今でもそれは変わらない。父が1998年の長野五輪に参加したこともあり、ずっと特別な感情を抱いていた。

1998年に行われた長野五輪。父親はチーム登録最後のメンバーとしてギリギリ最後の一人で代表入りを果たしたそうだ。

その20年後となる2018年の平昌五輪の予選に、自分もチーム最後の一人として追加召集された。不思議な縁だ。

しかし、終わってみれば結果は3戦全敗。それも、完敗だった。日本代表が3試合で決めたゴールはわずか1得点だけだった。自分の実力不足以外の、なにものでもなかった。

アイスホッケー男子日本代表は、2022年に行われる北京五輪の出場権も、予選ラウンドの段階で逃した。しかもこの時、自分は代表メンバーにすら呼ばれなかった。代表が負けることは本当に悔しかったけど、その舞台に立ててすらいない自分が情けなかった。

それから月日は経ち、今は2021年。あれから自分は上手くなれたのだろうか。成長できているのだろうか。世界との差は、埋まっているのだろうか。

男子アイスホッケー日本代表が次に五輪に出れるチャンスがくるのは2026年のミラノ・コルティア大会だ。

この大会に出場するためには、あの厳しい五輪予選を勝ち抜く必要が出てくる。世界の強豪国には、僕よりも年下で、チームを勝利をもたらしている選手たちがいる。そういった存在こそ、自分が今後ならなければいけない姿だ。

日本代表を五輪に導く選手になること。

小さい頃から決めた夢は今でも変わらない。

平昌五輪予選で果たさせなかった思いを。
ラトビア戦で決めきれなかったゴールを。

あの頃に果たせなかった悔しい思いは、今でも自分の心の中で燃え続けている。

2026年への勝負は、すでに始まっている。

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今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

三浦優希

*こちらの文章は、”高反発素材に着目し、質の高いスポーツ睡眠 を追求している寝具メーカー” 「ライズTOKYO」さん主催のエッセイキャンペーン、「#悔しかったあの試合」の参考作品として書かせていただきました。

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