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納得いかないふられ方

 恋をしたときに「どう考えても納得のいかないふられ方」というのがあるんじゃないかと思います。
 私なんか若いころはもてませんでしたから、これはもうしょっちゅうありました。

 私をふった相手からすれば、私とのやりとりの中でかいま見えた、私の「人柄」に幻滅したのだと(たぶん)思うんですね。
 だけどふられた私としては、何が悪かったのか気づけないわけです。
「なんだかわからないけど、ぼくを誤解してる? ひどいよ」としか思えなかったんです。

 いま思うと、「それが誤解だったのか、または私の人柄に対する正当な評価だったのか」という問いの立て方は、あまりに一面的にすぎるのですね。
 恋ってそんなひとり相撲みたいなものじゃない。それはおたがいの手の内がわからないままカードを出し合うゲームみたいなものじゃないかと、いまの私ならそう思います。
 これがたとえば将棋なら盤面が全部見えていますから、「あそこでこう指せばよかった」ってあとからわかりますよね。
 でも恋愛でそういう「敗因を探る」努力は、不毛なように思うんです。
 いやもうこんなことって恋愛経験値の低い私が偉そうに言えることじゃないのは、わかっていますけれども。

 敗因がどちらかわからない以上、私にできることは、「誤解されないようにコミュニケーション力を鍛える努力」と「人柄を良くするための努力」の両方だったと思うんですよね。
 だけどまだ若かった私には、それがわかっていませんでした。
 たぶん、これがわかるためには、ある程度の恋愛経験(片思いじゃなくて「つきあう」という経験)が必要なのではないかという気がします。

非モテの負のループ

 こうして、恋愛経験ゼロの私は、自分が何をしたらよいのかもわからないまま、また次の恋をして、また同じ失敗をくり返すのでした。
 要は「コミュニケーション力」と「人柄」を鍛える努力をしなかったわけなんですが、でもこれを「努力を怠った」と非難するのは、恋愛経験のない者に対してちょっと酷な気がします。
 なぜならこれは、

  1. 恋愛経験がないから何をしたらよいのかわからない

  2. 何をしたらよいのかわからないから努力できない

  3. 努力しないから同じ過ちをくり返す

 という無限ループの構造になっているからです。非モテの負のループとでも呼びたくなります。
 ですから、もてなかったあのころの私が、その後も長いこともてないままであり続けたことには、こういうやりきれない必然性があったのではないかと思います。

 最終的に、私が「コミュニケーション力」と「人柄」の両方を鍛えることができたのは、実は恋愛経験によってではなく、仕事で鍛えられたからだったと思っています。
 恋愛の華やかな道を歩むような生き方はできなかったけれども、裏道を行きながら人としての力をつけることはできたので、まあこれでよかったのだろうと思います。

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