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雑記②

全部はここから始まったことなので、あまりものに記したくなかった。

けれどそこからもう十余年ほど経つのでそろそろ本当に忘れそうである。

最近、大事なことを穴があいたように忘れるのである。それがあんまりに恐ろしくて、ふっとその穴に気付いたときわたしは身動きができなくなり、ほとんどの事が手付かずになる。

大切なことを考えようとするとき、今はもう大切でもなんでもない、翔子という女性をどうしても思い出さなければいけない。この人はわたしが生まれて初めて、恋愛感情を向けられた人である。初恋ではない。大事なことを考えるとき、とくに自分にとって欠けているものについて考える時、この人に恋をされたことをわたしはどうしても思い出す。

翔子は当時19才で、風俗嬢をやっていた。おそらくソープ嬢だったと思う。

風俗嬢というのは、客と性行為ないしそれに準ずる行為を行いお金を貰う女性のことである。彼女は当時18才の女性と二人で暮らしながら、その生活を風俗で働くことで賄っていた。彼女について今思い出せるのは、小柄だったこと。肌が白かったこと。胸が大きかったこと。字が綺麗だったこと。女子高を卒業し、家族と折り合いが悪く、少しだけわがままで、生きることが大変苦しそうであったこと。それくらいである。

彼女は、まだ随分子供だったころのわたしに「きみは女の人が好きなんだよね」と決められたことのように言った。わたしはそのとき、こんな風に自分を決めてくれる人がいることに安心しきり、それから自分を自分で決めることを、わたしは彼女と出会ってやめてしまった。

彼女がわたしのことを彼女にしたいと言ったので、わたしは翔子のことを好きになったのだ。次第に、普段は頼りなく甘えるのが上手いのに、ときどき気が狂って粗暴をわたしに強いた彼女を、とても好きだと思うようになった。それでも彼女に対して、胸を焦がすような思いをした覚えはない。風俗で働いていること、彼女が共に住んでいる人が彼女の恋人であることを知りながら、わたしは彼女の言葉にただ頷く日々を過ごしていた。付き合ってそれから、なにをすればいいかわからなかった。彼女を抱くことも、彼女に触れることも、当時中学生だったわたしには思いもつかなかった。ただ、彼女が生きていることを望むことだけがわたしにできる恋愛だった。

翔子はそのうちに妊娠した。そういう事情がつきまとう仕事だった。わたしはその報告を受け、彼女にかける言葉を選ぶことができなかった。大丈夫、あなたの思うようにして、体だけ大事にして。それだけをくりかえした。彼女はその日の夜に手首を切り、その写真をわたしに送ってきた。太い赤い線が、携帯電話の小さな画面に映し出されるのを、冬の塾の帰り道、自販機の前で見たことだけは仔細に覚えている。わたしの血はこんなにきれいに赤くないと思った。結局、わたしの優しさは、彼女の何をも揺るがさなかった。彼女はそれからすぐに堕胎のための手術をし、わたしは連れそうことも出来ず、ただ真昼にすべてが終わった報告を受けた。

翔子とはそれからほどなくして別れる。簡単に「わたしたちも別れようか」と言われた。生きることをやめないでいたら褒めてあげるよと他愛ない約束を交わして、恋人ができたら教えてねと言い合って、しばらく友達を続けているうちに彼女は健康になり、新しい恋人を作った。相手の人は戸籍では女性だが、ほとんどが男性の人であった。新しい恋人ができたよと言って、彼女は静岡に移り住んだことを教えてくれた。恋人と映った写真を送ってくれた。風俗をやめ、携帯電話のパーツをつくる工場で働いていると言った。あんまりにも幸せそうで、わたしは本当に冗談じゃなく、めまいがした。新しい恋人に悪いからと言って、わたしは彼女と連絡を絶った。電話番号とメールアドレスだけを残して、お互い連絡をとることもなくなった。

一度だけ、彼女から連絡があった。中越沖地震からしばらくしてから、突然メールが来たのだった。「ゆうちゃん、地震は大丈夫?」と安否を心配する連絡だった。彼女が何も変わらずにいることを知った。わたしはひどくうれしくて、短い返事を送るだけで、ろくな言葉をかけることもできなかった。彼女とは、それきり会うこともない。それでもいつか、わたしが生き続けていることに遠い場所から気付いてほしい。生きることをやめないでいたら褒めてあげるよと、彼女とわたしは恋人で無くなる時に約束をしたのだ。もう二度と顔を合わせて、抱き締めることもかなわないのと分かっていたのに。

彼女と付き合っているときに、誰にもしたことのない話をしたことがある。

それを聞いた彼女は「ゆうちゃんは、小説家になるんだね」と言った。あんまりにも当然のように言うので、わたしはまた「ああ、自分は小説を書くのか」と思った。そこから数年たち、小説をかき、それをやめたり続けたりして、もう10年が経つ。その間にとても好きな人ができ、そのたびに彼女を思い出した。彼女と交わした約束を思い出した。翔子はわたしにとって、恋人ができたよといつだって伝えたい人であるのだ。

わたしは女性が好きでもなんでもなかった。彼女の人生にどうしても関わりたかっただけのただのなんでもない人間だった。翔子のことが好きだった。わたしは彼女の人生に関わった責任をひとつもとれないまま、彼女を思いながら身勝手に大人になってしまった。翔子のことが今も忘れられないほどのことかと言えば、そうでもないと思うのに、何か大事なことを考える時、過去をさかのぼる時、彼女の笑顔にたどり着く。ただのわたしを好きだと言ってくれたはじめの人。可愛い女の人のこと。今でも、ただ生きていてほしいと思う。

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