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もう一度、書きはじめる

あんなにもう、書きたくないと思っていたのに。
たいして誰にも読まれないならば、お金にならないならば、書きつづける理由なんてないと思っていたのに。
書くことを通じてしか、自己理解を深められない状態を卒業できたから、もう書く必要はないと思っていたのに。

何人が読むとか、出来栄えがどうとか、そんなことはどうでもいいから、ただ書きたいわたしがいる。
かつてのように、自分で自分を深く知るという目的がなくなっても、この時間を手放せないわたしがいる。

わたしの身体が感じている質感を、そこから思い浮かべたあれこれを、言葉にしてすくい取りたい。本来ならばわたしの中で流れて消えていってしまうものを、ほんのひとひらでも捕まえて、これぞと思う言葉で永遠にとどめたい。


本当に必要なものは、離れてみるとわかるものなのだろう。
「好きかどうかわからなくなった。少し距離を置きたい」なんて倦怠期のカップルみたいなセリフを、わたしは”エッセイを書く”という行為に対してつきつけた。

その結果がいま。
テーマも構成もなんでもいいから、思うがままに言葉と戯れさせてほしい――切実な思いが身体の内側からあふれ出して、どこにいくのかわからない文章をこうして綴るはめになっている。これではまるで収拾がつかないから、こまめに書いていこうと反省した。(といっても、書かなかったのは6日ほど)


とはいえ、ぬぐえない疑問がある。自分のために書くのならば、公開しなくてもいいじゃないか。実際のところ、「書きたい」という思いに、「読まれたい」とか「お金を稼ぎたい」みたいな欲求を上乗せすると、とたんに重量オーバーして身動きが取れなくなる。そういう欲求と距離を置きたいのならば、公開しないほうが自然だ。

それなのに、わたしは書いた文章を公開せずにいられない。誰にも読まれない場所で書くことに、不思議と違和感がある。理由は説明できないけれど、もしかしたらわたしの意図を超えたところに、必然性があるのかもしれない。わたしの気まぐれなエッセイを読んだ人に、時空を飛び越えてなにかを手渡せる可能性があるのかもしれない。わたしのあずかり知らないところで、人知を超えた力がはたらいているということにして、書きたいように書いてみようと思う。

連日更新するかもしれない。かと思えば、しばらく休むかもしれない。あれがやりたいと熱っぽく語った3日後には、もう飽きているかもしれない。マイナーなものにハマるかもしれない。いままで隠しがちだった気まぐれで風変わりな自分を解き放って、もう一度、言葉と戯れる時間を日常のなかにつくっていきたい次第だ。



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最後まで読んでくださってありがとうございます! 自分を、子どもを、関わってくださる方を、大切にする在り方とそのための試行錯誤をひとつひとつ言葉にしていきます。