見出し画像

運命の人の謎

この町に越してきてからほどなく、私は見つけてしまった。
それはなんと運命の人だ。

その人はいつも歩いてる。雨の日も晴れの日も。
紺色のナップサックに紺色の作業着のおじちゃん。
誰だって暮らしている町で「顔見知り」ができることはあるだろう。
気がついたのは何度目かの遭遇。
すれ違いざま「あ」と思わずつぶやいたのだった。
おじちゃんのどこが気になったのか自分でもさっぱりわからない。

おじちゃんはいつも歩いてる。
目じりを下げ、人のよさそうな笑みを浮かべて。
まるで鼻歌でも歌っているかのよう。散歩とも買い物とも違う風情。
作業着スタイルから通勤タイムと考えるのが一番妥当。
ビニール素材のナップサックはいつも背中にぴったりフィットして軽やかだ。
こんな風に認識してからというものの、町のそこかしこでおじちゃんと出会うようになった。
スーパーの出入り口、ショッピングモールの駐車場、書店の角、子どもの習い事の帰り道。
もはや休日平日を問わず、時間帯を問わず、行く先々でふと思い出したかのようにおじちゃんを見かけるのだった。(ただし、オンリー町内)
そして決まっておじちゃんは紺色を身にまとっている。

思わず「おじちゃん」と口から飛び出たことを考慮すると、もはや、前世で本当に「おじとめい」の関係だったのかもしれない。
いや、この意味不明な親しみの気持ちからして、大の仲良しの友かもしれない。
もしくは師弟関係、はたまた恋のライバル関係。
この「おじちゃん察知能力」の研ぎ澄まされっぷりを検討すると、やはり彼とは何らかの間柄だったとしか考えられない。

しかも、困ったことに、私が「あ!」と声を発しても、一緒にいる誰ひとり、おじちゃんに気がつかない。
おじちゃんは、私以外の人にとっては過ぎゆく景色のほんの一部にしか見えないようだった。
もしかしたら本当に私にしか見えていない可能性だって考えられる。
そういえば、おじちゃんを察知してすかさず「ほら」と声をかけても、誰もが「え?」としか言わないよな。ホラー?イマジナリーフレンド?

僕にしか見えない地図を 広げて一人で見てた
目をあげたときにはもう 太陽は沈んでいた
【流れ星/スピッツ】

その実存さえ疑わしいにもかかわらず、ついにおじちゃんを「運命の人」と心の中で呼ぶようになってしまった。
神出鬼没のおじちゃんにとって、私もまた神出鬼没の主婦だろう。
だがしかし。おじちゃんとは一度も目が合ったりしたことはない。
運命の人であるはずのおじちゃんは、あろうことか私のことをちらりとも認識していないという事実。

それから時が経ち、忌まわしき巣ごもり生活が始まった。たまに買い出しに出かけても「おじちゃん」を見かけることはなかった。
見かけなければ、見かけていないことすら意識にのぼらない程度のおじちゃんなのだが、自粛期間が明けておじちゃんを見かけたときに、心からほっとした。
ひさびさに再会(一方的)した時には、おじちゃんもマスク姿に変わっていた。ちなみにマスクは白色だった。
それまでおじちゃんのことなんてすっかり忘れていたことをすっかり忘れて、その元気そうな足取りに無駄に盛大に胸を撫で下ろした。
名も知らぬ、町ゆく誰かの無事を無条件に嬉しく思う気持ちがあるなんて。

暑い夏が来る。照り付ける太陽に、おじちゃんが元気で過ごせますようにと願わずにはいられない。
町で紺色のおじちゃんを見つめてほんのり微笑んでいる主婦を見かけたら、それは私である。
視線の先がただの町角の風景だとしても。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?