見出し画像

慢性疲労症候群の症状の経過を振り返ってみる③悪化して動けなくなるまでの13年間の経過:後編 大クラッシュ後も働いて

前回の慢性疲労症候群の症状の経過を振り返ってみる②悪化して動けなくなるまでの13年間の経過:前編 大クラッシュが起こるまででは、卒後初めての就職先を退職するまでを振り返りました。

退職時にはひどく疲労してしまっていて、再就職なんて考えられない状況で、とりあえず、学生時代に住んでいた札幌の引っ越し先へ落ち着きました。

振り返るとそれまでにも何度もクラッシュを起こしていたんだと思います。
そして長く続いた日勤、退職に伴う引っ越しが後押しして、札幌に引っ越ししてきて大クラッシュを起こしたのでした。


1.大クラッシュの症状

引っ越し後1カ月は荷解きもできない状況で、とにかく身体を越していられない。
たまたま兄が同じ市に住んでいたので、兄にお願いして車を運転してもらい、引っ越し先で必要なカーテンなどを買いに出かけました。
なぜ車を運転してもらったかというと、

・とにかく身体を動かすのとがつらくて運転できない
・頭がくらくらする
・店内を見て回ることができると思えなかった
 (実際、買い物先で動けなくなり途中から椅子に座り買い物を任せた)
・明るいところが特につらい、車のライトが眩しくて目がくらむ
・車の振動でも具合がさらに悪くなり、車に乗っただけで体調悪化

といった具合だったからです。
どう思い返しても今では見知った光過敏音過敏振動での体調悪化活動での体調悪化…。
慢性疲労症候群の代表的な症状ばかり。

当時は、もともとの体力のなさと前職の激務が重なったせいとしか思っていませんでしたので、特に病院にかかった記憶はありません。
毎日飲まなければいけない薬はたくさんあったので(小学生から同じ薬を飲んでますのでだんだん余っていきました)受診しなくてもよかったようです。その後通院歴をたどりましたがこの時期の受診はありませんでした。

あまりに体調が悪く記憶も定かではありません。
ただ、1カ月荷解きできなかったことを覚えているのみです。

ですが、3カ月ほどたった時期には大分回復しました。
もともとの体質や体力のせいで動けないほど具合が悪くなった、
と思っていたので、もう看護師の仕事はしないつもりでいました。
そんな私の回復したと感じる基準がどうなのかはいまいちわかりませんが、それなりに回復したといえるのは、アルバイトを始めたからです。


2.アルバイトはじめ、からのダブルワーク

看護師をしないなら「飲食の仕事がしたい」と思い始めたのがカフェのキッチンでのアルバイト。しかもそこはお味噌汁はだしからとるというところでした。毎回6リットル~10リットルの水からだしを取り、鰹節を濾すために寸胴をもち上げていたのですから力も体力も回復していますよね。

飲食のアルバイトは時給がとても安くて、だんだんと生活が苦しくなっていき、私がとった手段はダブルワーク。
つい1~2カ月前まで動けなかった人が何をやっているのかと思われると思います。私も思いますから(笑)。

カフェの仕事は、早番と普通出勤、遅出がありました。
早番だと8:30くらいからだったか。遅番の退勤は確か遅くても23:30まで。
デパート内のカフェだったため、時間厳守でした。

ダブルワークに選んだ仕事はこの時間帯にかぶらない仕事。

そう、深夜帯勤務の看護師の仕事です。

何やってるんだか/(^o^)\


深夜帯のみで募集していた看護師業務は、とても珍しいもので心療内科の病棟でした。精神科ではなく心療内科。

「心療内科」は心理的な要因で身体の症状(胃潰瘍、気管支ぜんそくなど)が現れる、いわゆる「心身症」を主な対象としています。
 ※厚生労働省 医療機関の選び方参照

というわけで、精神科の入院適応にはならないけれど、心身の不調があり入院を希望される方がいらっしゃる病棟です。
心身ともに急を要する状態ではなく、日常行動に介助が不要で自死しないことを約束した方のみ入院できるというところでした。

中にはとても慎重にみていく必要がある方もいらっしゃいましたが、基本的には見回りはしますが皆さん寝ていらっしゃって、起床時間に活動開始する問状況。それまで働いていた病棟が、急性期や終末期の患者さんが入院していて、時間帯関係なく緊急入院もある病棟での勤務でしたので、格段に緊張が少なく働くことができました。
深夜帯はタクシーで行き、帰りは地下鉄で帰ってくる。
急変したり看取る可能性がとても低い状況は気持ちがとても楽でした。

そういう病棟での深夜勤務を月8~9回しながらカフェでシフト勤務。
時にはシフト調整を間違えてしまって遅番でカフェから帰ってから病棟勤務をしたことがありましたが、できていたんですよ。
前職での勤務より心身ともに楽でした。断然に。

大きくクラッシュした後でもそんなに回復していたんだ、と後から考えるとびっくりしますよね。

このダブルワーク生活はおよそ半年。

もう少し続けたいと思っていたのですが、家庭の事情により正職員で働いたほうが良いだろう状況になり両方の仕事を辞め、再度病棟看護師として再就職したのでした。
看護の仕事が好きだったということもあります。
体力的な心配はやはりありましたので、できるだけ負荷の少なさそうな病棟を探したはずだったのですが、実際配属された場所は面接で話していた病棟ではなくまた大変なところに配属されてしまったのでした。


3.病棟看護師再チャレンジ

病棟復帰は予定では療養病棟の残業が少なく定着率の高い病とという話だったんですが。
実際配属されたのは、完全介護の必要な患者さんの療養病棟+心臓カテーテル検査と治療を行う急性期循環器内科+消化器内科のミックス病棟。

/(^o^)\オワタ……フラグしかない……

急な離職が出て病棟が回らなくなったのでということでした。
循環器……心電図苦手…あー。
10人のモニター心電図が映し出される機械がナースステーションにありました。
足りなければまた引っ張り出してきます。
しかも経管栄養のパックが10個以上。
しかもしかも回らないくらい人手が足りない/(^o^)\
人工呼吸器の患者さんもいました。

そんな中に外科病棟で5年働いていた経験者が来たら、ね。
その病院、病棟特有のことを説明したら後は放置です。
わからない手技については誰かを捕まえて教えてもらいますが、逆に抹消ルートが取れない、バルーンが入らない、胃管が入らないといって呼ばれて手伝う状況。私が未経験だったのは腹膜透析の手技くらいだったと思います。
なぜか就職して3か月目に病棟学習会をしてくれとか/(^o^)\

無茶ぶりをしてくる上司とスタッフに囲まれて順調に体調は悪化していきました。


4.体調は階段を駆け下りるように悪化していく

半年たつ頃にはもうヘロヘロで、明らかな「異常」が出てきました。

食事をすると動けなくなってしまう。
消化にエネルギーを使われているといった状況です。
それは日勤をしていたある日いきなり起きました。
昼食を終え午後からの勤務が始まり部屋を回り始めたはいいけれど立っていられない。できるだけ椅子に座り仕事をしました。
2~3時間経つ頃に少し楽になりました。

こんな状況では仕事になりませんから、仕事時間中は食事をとるのをやめました。プリンやゼリー、エネルギーチャージ系の飲むゼリーなんかを駆使して仕事をつづけました。
検査は?治療は?と思うかもしれませんが
「消化にエネルギーが使われて動けません」という主訴で受診しても検査のしようもないし、治療法なんてないのはいかなくてもわかります。
だって看護師なんだもん。

いつもの体質ってやつだな、とあきらめざるを得ませんでした。

そんな状況でしたから、夜勤が終わるころにはフラフラになって、時には動悸が止まらなくなって、記録も終わらないのにソファーで横になっていたこともありましたが、セクハラをしてくる循環器内科医が担当している循環器内科では絶対に心電図なんて撮られなかったので、息をひそめていましたから、心電図に異常があったかは確認できませんでした。

秋には上司に体調不良について相談して、いつ動けなくなるかわからないので退職も視野にしていると伝えていたのですが、
上司からは「心療内科に行ってみてはどうか」というお言葉。
精神的に負担になっているのはあなたくらのもので他に悩みはないんですよねとは言いませんでしたが、身体がきつい、以外には特に困っていませんでした。
こんな状況で新しく入ってくるスタッフの指導役になってほしいだとか、私が書いたインシデントレポート(ヒヤリハッとというようなトラブルにつながりやすいことを体験したら改善のために書く報告書です)を破り捨てるだとか、そのインシデントについてあたかも私が疲れているから起こした、疲れているは言い訳にならない、という内容で朝の朝礼でみんなに話されただとか(実際のところ報告書を破り捨てられていいくらい私はただの発見者です)、ストレスといえばその上司にしか結びつかなかったんですけれど、上司本人には自覚はなかったようです。
まあ、そんなもんですよね。

体調も悪化し、食べることもままならなくなったある日の日勤。
周りからも見てもわかるくらいガタガタ震えて一気に発熱しました。
39度を超えていました。
もう冬に入る時期でしたから、一緒に働いていたスタッフに外来まで引っ張られていきインフルエンザの迅速検査を受けました。鼻の奥の粘膜にぐりぐりするあの検査です。
インフルエンザの迅速検査は発熱してからある程度時間がたたないと検査では反応はありません。なのでもちろん陰性でしたが、咳などの感染症の症状もなく、熱も一時間もしないうちに下がりました。
入院患者さんへの影響を考えて、私は仕事はお休みしてインフルエンザ治療薬を飲んで自宅で待機しました。あの発熱が何から起きたのか不明です。

体調不良と業務の忙しさにもう耐えられない状態になり、ちょうど1年、年末でその病棟を退職しました。

食事は少ししか摂れないままで、何年もあっていなかった友人との楽しい食事会でも、トイレで吐いたいう切ない思い出になってしまいました。

この病棟に勤めた1年間は、その病院の外来に引っ張って連れていかれたぐらいしか病院受診はしていませんでしたが、心療内科の受診を勧められたのをきっかけに、心療内科もある内科レディースクリニックを受診するようになりました。元々甲状腺機能低下症がありましたので通院が必要だったので、そこで甲状腺も診てもらうことになりました。

体調不良は食べられないだけではなく、ふわふわしためまいがあり、エレベーターが動き出すときや止まる直前のような、頭をふわっと横に動かされるようなものがあり、大きな病院の耳鼻科で検査もしましたが特に異常は見られないとのことでした。
手に力が入らないという症状もあり、患者さんの移動などは必ず手伝ってもらったり代わってもらっていました。
手の感覚が鈍くなっているような感じで、天井のフックにかけて使う点滴棒(イメージつくでしょうか?知恵の輪のように先が丸く天井につけられた丸い輪にひっかけて点滴の袋を掛けて使います)がよく手から滑り落ちました。落ちる感覚が分からず、床に落ちてようやく気付くといった感じです。これも病院で相談しましたが原因はわかりませんでした。


5.病棟看護師はあきらめて会社員に転職してみたけれど

2度目の病棟看護師挫折で、病棟で働くことは完全にあきらめがつきました。私には無理な仕事なんだと再確認した形になりました。
退職後は私でも看護師の資格を利用してできる仕事がないか探しました。

たまたま見つかったのが会社員治験コーディネーター。
フレックス制といって、定時出勤定時退社ではなく必要な時間に出勤して仕事をするという仕組みでした。
誰を相手にした仕事かというと、製薬会社、治験を行う病院やクリニックなど、治験に参加してくださる被験者さん(患者さん)、治験倫理委員会やPMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)やFDA(アメリカ食品医薬品局)に対応します。
治験の契約がない時期にはお仕事が少なく、契約が多い時や開始時期にはとてつもなく忙しくなるのですが、忙しくな時には自宅で治験に関する勉強をすることも仕事にカウントしてくれる会社でした。

12月末に病棟を退職して、治験コーディネーターの会社は4月から働くことになり、3カ月休むことができたこと、入社から1カ月は事務所でのオリエンテーションや治験について学ぶ期間で、入ったばかりの私ができることはとても少なかったので実務に入りだしたのが4月中旬以降。
座って勉強するとか、自宅で参考資料を読むとか。
忙しく動き回ることがない仕事というのが初めてでとても新鮮でした。
何より、まだ体調がよくない私には体を休められてとても助かりました。

思えば、この頃以上に体調がよくなったことはなっかったように思います。

治験コーディネーターの仕事は4年勤めることができました。
この頃にはうっすらですが
「2~3年ごとにものすごく体調が悪化する」と自覚がありました。
治験コーディネーター時代にも1度、息ができないくらいの咳が出て治療したことがあります。1週間くらいで咳は止まりましたがとても疲れやすくなっていた記憶があります。
友人に遊びに誘われても、翌日休みでなければ出かけませんでした。

そして会社員に転職して3年目。
体調が悪くなる頃だなという自覚はありました。

会社が吸収合併で働き方が変わりフレックス制ではなくなります。
スマートフォンで何時何分~何時何分までどこにいて何をしていたか随時報告するというようになりました。少しでも時間があればオフィスに来るようにという御触れが出ます。

治験コーディネーターは実務2年の経験と勉強会の出席をすることで、認定試験の受験資格が与えられます。会社では受験は必須とされていましたので日常の業務の傍ら受験勉強をしていました。
そのころ担当していた治験は5本、担当施設は主担当が5か所、複数人で担当していたのが3か所。車で1時間以上かかるクリニックは朝7:30から診療が始まる、被験者さんの受診があるとなればその前に確実に到着していなければいけません。診療が終わるのが21時というクリニックもあります。
担当被験者50~60人のスケジュールを調整しながら、不備がないように治験を進めながら監査の準備、試験勉強。

疲れていたんだと思います、普通に。

秋口から風邪のようなだるさや微熱が続いていました。

シャワーを浴びるにも腕がだるくて休憩をはさみながら体や頭を洗いました。何より歯磨きがつらくなっていました。
洗面所で済ますことができなくなっていて、居間で床に座り、肘をテーブルにおいて歯を磨きました。
350mlのペットボトルをもち上げて口に運ぶのが大変だと感じるようになりました。
今考えたら最初に勤めた病棟を退職する頃もこんな感じだったかもしれません。

もちろんこの時にも明らかに異常があると感じて、最初は首のヘルニアを疑い整形外科を受診しましたが問題ないとのことで、次は脳神経内科に受診します。

脳神経内科の受診は2年ぶりでした。
2年前も同じようにおかしいと感じて受診していたんです。

そう、同じような症状が周期的に悪化して受診するということを繰り返していたのです。

札幌中の病院を受診して、検査では異常が見つからず、
何度も医師から「お力になれそうにありません」と終診を告げられる。

仕事の合間を縫って受診していましたが、一気に状態が悪くなりました。

もうすぐ春という頃、2時間の会議で座っていることができなくなり総体の相談をしようと上司に話をしたところ、休職の指示がありました。

だいぶ前から体調が悪いことを同僚に話をしていたのを聞いていたことと、明らかに書類でのタイプミスが目立つようになり、動けていないのを見ていたようでした。
会社の規定では3カ月の休職で復職できない時には退職しなければいけませんでした。今までの経験から仕事を3カ月休めばきっとある程度動けるようになると思っていました。
でもそうはなりませんでした…。

休職したその日から一睡もできなくなりました。
睡眠導入剤をもらって飲んでも全く眠れません。内科で処方できる睡眠薬を順々に試していきましたがどれもダメでした。
最終的には精神科でお薬を調整してもらいようやく眠れるようになったのですが、それは一人暮らしがもう無理だとあきらめて実家に戻り、今の主治医にたどり着き精神科を紹介してもらってからの話で1年以上先の話です。

その当時の症状は
・体を起こしていられない
・歩いていられない
・横になっても疲れが取れない
・身の置き所のない何とも言えない具合の悪さ
・音・光過敏
・腸の働きがおかしいようで水様下痢を定期的に繰り返す
・全く眠れない
・手に力が入らない、細かな動きができない
 (粉薬を飲もうとして手から落としてしまう、ペットボトルや瓶のふたが開けられないなど)

とりわけ困ったのが「動けないこと」でした。
家から見えるコンビニ、徒歩2分ができないのです。
部屋の、すぐに行けるはずのトイレすら遠く感じ、
マンションの敷地内のごみ置き場に行くこともままなりませんでした。
車の運転ももうできませんでした。

そんな状況でしたが、まだ兄に力を借りながら一人暮らしをしていたのは、慢性疲労症候群と診断してくれた医師以外に症状の相談ができる医師が見つからなかったからです。


6.一人暮らしができなくなり地元・実家に帰る

運よく地元で慢性疲労症候群を診てくださる医師が見つかり実家に帰ることになりました。もう一人暮らしは完全に破綻していて兄に家事をしてもらい面倒を見てもらっていたのでそれ以外の選択肢はありませんでした。

当時は、頭が働かなくて言葉を発することも難しい状況で、家族に何か伝えようとしても言葉にならなくて、母だと察して「しゃべらなくていいから」といって動いてくれました。

そんな感じでしたので、引っ越しも親任せ、物件についてはその後兄がしばらく使うことになったのでそのまま任せました。
親の車に揺られ、アイマスクをして、ノイズキャンセラーをした上からイヤーマフをして、後部座席をフラットにしてもらい厚めの敷布団を敷いてもらいそこに横になりエンジンの振動と走行中の車の振動に耐えながら実家の、亡くなった祖母が使っていた半2世帯になっている部屋に収まることになり、今に至ります。

地元に戻り約2年は真っ暗な部屋でほとんど、トイレ以外は体を起こしていられないような生活を送っていました。

当時の様子はテレビ東京が作成したドキュメンタリー「難病女子の闘い」に少し紹介されています。開始10分過ぎくらいから紹介されている北海道の患者が私です。
よかったら動画を見ていただけると嬉しいです。


7.診てもらえる医師がいないのは致命的!だから啓発活動・患者会活動をしています(特に今!急務です!)

完全に働けなくなったのが平成25年。
私が社会人というものができたのは10年でした。

人間生きていれば病気やけがをするのは仕方がないし、その状況状況に応じて生きていくほかないと思っています。

ただ、こんなにも診断に時間がかかるのは異常です。
もしもっと早く病気だから動けなくなっていたんだとわかっていたら、あんな無茶な働き方はしなかったと思うんです。

もしもとか、タラればの話は、私は意味がない思うのでしませんし、ほとんど考えません。
ただ、診断も治療も相談もできない疾患があるんだと声を出さなければ何も変わらないし、ほかの誰かが私と同じ道を10年なぞらせるなんて考えられない。どうにかしなくちゃ、どうにかしたいと思いました。

先ほどご紹介したドキュメンタリーで取材されていた患者さんや他にTwitterで知り合った(Twitterは動けなくなってからはじめました)同じ慢性疲労症候群の方たちとつながり、毎年なにがしかの啓発活動をしてきました。

慢性疲労症候群医療講演会 東京もその一つです。

また、ほかの年にはいろいろな地域の病院や大きな施設にポスターを貼ってほしいと依頼して郵送したいなどもしました。大学病院や地域で大きな役割を担っている病院などです。患者さんだけでなく病院のスタッフの方にも見ていただけるような場所に貼ってもらえるよう依頼をして。
お願いした病院ではほとんど断られることはなく貼っていただけていたと思います(実際に貼りだしをしている様子は見られていません、私は北海道なので北海道のいろいろな地域の病院に依頼しました)。

でも、認知度はなかなか上がらず、実際の診療先拡大までには至っていません。
もっと具体的に、実働的なことをしないと変わらないなと考えていた時に、今私が参加して副代表をさせていただいていますが、代表が北海道旭川市で患者会を立ち上げました。そこに参加させていただいて今活動しています。

北海道ME/CFS幸せたんぽぽの会といいます。2018年1月に発足しました。

旭川市へ慢性疲労症候群の一般・医療関係者への認知拡大と患者、特に10代の学生さんへの支援をお願いしたく、陳情を提出して採択されました。

実際に市内の小中学校の養護教諭の方々へ講演をさせていただきました。
代表と私とで協力しながら資料を作り、当日も2人で出席させていただき、代表がスライドを使いながら説明させていただきました。
私はとりあえず行った、という感じではありましたが、当日体調が悪く、リクライニング車いすの背もたれを倒して横になっていましたが、そういった患者の実際の様子を見てもらうにはよかったと思います。


新型の感染症の席捲で集まりを持つことなどはできていませんが、患者会として道議会議員の方や北海道医師会の委員の方々にもお話を聞いていただいている状況です。

なぜ今なのかというのも理由があります。

慢性疲労症候群はウイルス感染などの後に発症するケースが多く、今席捲している新型コロナウイルス感染症後の長期間続く不調と症状がとても酷似しているからです。
実際に感染症の症状(COVIS-19陽性が確認できているケースだけではありません)に慢性疲労症候群と診断された方は実際にいます。

そんなわけで、患者会としての活動も急務。

でも今は冬。

冬型の気圧配置は確実に体調に影響していて、寒くなってからはものすごく体調の悪い日が多いのです。

色々書きだしながら考えをまとめつつ
患者会の活動もしていっていますので、そちらも応援やサポートしていただけると嬉しいです。

頭を働かせることも、身体を動かすことも、エネルギーをうまく使うことができなくなるのがこの慢性疲労症候群の厄介なところですので、「頭」や「活動」をサポートしてくださる我こそは!という方がもしいらっしゃいましたら声をかけていただけますと幸いです。
(患者会のホームページのパスワードが分からなくなって更新もできなくなっている頭なので、頭を貸してくださりませ~)

駄文・長文にお付き合いくださってありがとうございます

(*- -)(*_ _)ペコリ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?