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人間はすべてを覚えている?

 人間の記憶はよくできていて、苦しかったことや辛かったことは、おおかた忘れています。そして、楽しかったことや嬉しかったことを、実際にあったよりは強調して覚えています。だから、誰にとっても、過去の回想は楽しいものです。

 現実逃避をすすめるわけではありませんが、週末の夜にでも過去の世界に「時間旅行」し、追憶に浸ってみるのも一興でしょう。テレビを見るよりは、ずっと楽しいはずです。

 人間は、驚くべきことに、生まれてから経験したことをすべて記憶しているのだと言います。ただ、大部分の記憶が「簡単には引き出せなくなる」だけなのだそうです。
 実際、カナダ、マギル大学のペンフィールドの実験では、脳に電気的な刺激を与えることによって、本人はまったく忘れたと思っていた幼児期の記憶が完全な形で引き出せたと言います(M・ブラウン『記憶力がよくなる本』村上志津子・新井康介訳、東京図書)。
 あるいは、人間は死ぬ直前の一瞬の間に、生まれてからのすべての経験を思い出すのだとも言います。これを実際に検証するのは難しいですが、崖から落ちて奇跡的に助かった人が落下の途中で全生涯を思い出したという話などは、その傍証といえるでしょう。
 アンブローズ・ビアスの短編小説『アウル・クリーク橋の一事件』は、これと似た経験を描いた短編です。アメリカ南北戦争のとき、橋に吊るされて絞首刑にされた男が、身体が落ちて絶命するまでの一瞬に夢を見る。本人は綱が切れたと感じ、夢の中で二日間かけて自分の家に辿り着くのです(『いのちの半ばに』西川正身訳、岩波文庫。なお、この物語は、映画化されています)。

 人間の記憶はいつから始まるのでしょうか?普通の人が覚えてぃるのは、四、五歳くらいからですが、もっと早い時期の記憶を持っていると主張する人もいます。三島由紀夫は、『仮面の告白』の中で、誕生したときの記憶があると述べ、産湯をつかったときの盟の様子を描写しています。この話は創作だと思われていたのですが、誕生期の記憶があるという証言は、この他にもかなりの数あるそうです。だから、必ずしも荒唐無稽な話とはいえありません。それどころか、胎児のときの記憶の証言すらあると言います(立花隆『臨死体験』、文藝春秋)。
 「人間はすべてを覚えている」というのが本当だとすると、適切な刺激を与えてやれば、さまざまな記憶が引き出せることになります。「すべて」とまでゆかなくとも、「忘れたと思っていたことを思い出す」ことはできます。
 アイゼンクも、「子供時代に遊んだ野原や母校に帰ってくると、子供の頃のさまざまな経験がどっと甦って驚くことがある」という経験から、「子供の頃にできた記憶痕跡の多くは、記憶システムから消え去っていない。忘却の理由は、記憶痕跡の劣化や減退によるとは限らず、記憶をよみがえらせるための適切な検索の手がかりがないことよる場合が多い。記憶痕跡は、適切な手がかりによって活性化させられるのを待っている」という意味のことを述べています(『マインドウォッチング』、田村浩訳、新潮選書)。

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