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「超」整理手帳についての思い出:宮崎邦次氏

 「超」整理手帳については、いくつも思い出がある。
 いまでも鮮明に覚えているのは、第一勧業銀行元会長の宮崎邦次氏の使い方を聞かされたときのことだ。

 私はある会合で宮崎氏と一緒だった。この会合は、日本工業倶楽部で定期的に行なわれていたのだが、あるとき、「超」整理手帳のシートを一枚だけ背広の胸のポケットから取り出して、「野口さん、使ってますよ」と話しかけられた。
 「いや、それはそう使うのではなく・・・」と言いかけて、私は、慌てて口をつぐんだ。
 「超」整理手帳は何枚かのシートをフォルダに挟み込んで使うのだが、確かに、宮崎氏のように一枚のシートだけでも使える。ポケットに入れるという点から言えば、むしろ、宮崎氏の使い方が正しい方法かもしれない・・・

 そのときの氏のニコニコした顔は、いまでもよく覚えている。
 大変尊敬すべき方で、大銀行の頭取・会長を務めた方とはとても思えない気さくさだった。語弊があるかもしれないが、山奥の貧しい村の村長さんのように朴訥で誠実な方と思えた。

 宮崎氏は1997年6月に自殺した。
 その1月前に第一勧業銀行による総会屋への利益供与事件が発覚しており、事件の裏に暴力団と第一勧銀の長年の関係があると言われていた。事件の鍵を握る人物として、東京地検の取り調べを受けていた。自殺の前日にも取調べがあった。
 それが、氏の死の原因だったことは明らかだが、自殺しなければならぬほどの事情が何だったのか、真相はいまでも謎に包まれている。
 このニュースに、私は強い衝撃を受けた。
 宮崎氏は、1988年に頭取、92年に会長に就任、96年に相談役に退いていた。
 宮崎氏が第一勧銀の頭取を務めていた1990年前後には、他の銀行も、また日本の企業全体も、不動産バブルが膨らんでいく中で、そうしたアンダーグラウンドの世界と深く関わっていたのだ。

 氏の人柄をうかがわせるエピソードは、いくつも伝えられている。
 40歳代の東京の支店時代に訪れた友人は、勤務時間が終わっても1人で掃除を続ける宮崎の姿を覚えているそうだ。
 頭取就任の挨拶回りで出身旧制高校の朝食会に招かれたときは、主賓席を「いやいや、とんでもありません」と逃げ回り、下座にいる幹事の隣に座ってしまった。記念撮影のときにも、中央に設けられた席を避けて、一番端に行ってしまったという。

 同級生は、宮崎が頭取を目前にしていた頃にもらした「銀行なんて、そんなにきれいな所じゃないよ。今度生まれ変わったら本当に映画評論家になりたい」という言葉が忘れられないという。
 宮崎氏は映画が好きで、 頭取時代にも週1回は映画館に通い、週刊誌に映画評論の連載をしていた。
 マスコミの取材には、映画への憧れを語った。試写会の招待券は山ほどくるのに、必ず入場券を購入したという(読売新聞社会部『会長はなぜ自殺したか-金融腐敗=呪縛の検証』、新潮文庫、2000年による)。

 私は、「いつか宮崎さんと映画の話ができたら、どんなにか楽しいだろう」と思っていた。しかし、その夢はついに成就されなかった。それを心から残念に思う。
 そして、時間が経つほど、宮崎氏の思い出は鮮明になって蘇る。


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