子どもが苦手だった私の子育て観
最近の状況により、お家で過ごす時間がめちゃくちゃ増えた
何とか保育園に通えていた息子も連休の合間はほぼほぼ自宅で遊ぶことになる
私は昔から子どもが苦手だった
予測不可能な動きをする生物
話が通じない
大きな理由はこの二つで
たとえ友人の子どもであっても出来れば子どもなしで会いたかった
そんな私が母になった。
妊娠中、そういえば不安だった。
子どもが欲しかったものの、よく考えたら自分は子どもをあまり好きではない。私、子育て大丈夫かな?
時々、そんな不安にさいなまれた。時々というのは妊娠中は正直無事に産むことが最優先で出産後のイメージはとにかくあまり持てなかったから。
そして今年の春、息子は3歳になった。
子育て大丈夫かな?と思っていたことはこれを書くまで忘れていた。というよりも、出てきてしまったらもう目の前の赤ちゃんに必死で大丈夫もなにもとにかく毎日死なないように(笑)お世話をするしかなかった。
2歳くらいまでは本当にそんな感じ。
当たり前だけど好きとか嫌いとか、そんなことを言っている余裕はないのが新生児期~幼児期までの時間だろう。そしてふともう赤ちゃんではなくなった息子を見て、ああ私子育てしてるんだなと我に返るという不思議な感覚。
もう一度言おう。
そういえば、子どもが苦手だった。
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まだ子供がいないとき、友人の家に遊びにいっても少しの時間でぐったりして帰った。
「やっぱり私は子どもが苦手なんだ」
そう思っていた。
だけれど、今なら分かる気がする。
苦手というには、あまりに子どもを知らな過ぎたし子どもとの接し方の前提を間違っていたように思う
「何か遊んであげなくては」
そんな風に思っていたこと自体がきっと違うんだということを。
今、子どもが家にいて、確かに何して遊ぶ?的なことにはなるけれど、息子をみていたら何でも遊びになるし、何かアトラクションを期待しているわけではないんだろうなと。
もちろん大人であり親は、どうにかして子どもを愉しませようと必死になる。だけれど子どもにとってはどこかに連れていってくれることもきっと嬉しくて楽しいだろうけれど、一緒に何かをやることがきっと楽しいのかもしれない。
きっと3歳の息子にとっては毎日がアトラクションなんだと思う。初めての食べ物、ドアの開閉(最近やたらといろんな扉に興味津々で扉研究家と呼んでいます)、ペンで何かを書くこと、全てが初めてで新しいこと。
大人にとっては当たり前のことが当たり前ではない子どもの世界
その体験を共有することがきっと一緒に遊ぶことなのかなと今は思う
私は子どもの相手は上手ではないけれど、子どものすること興味があることに同じように新鮮な気持ちで接することだけは気を付けている
電車に興味があれば、私だって知らなかった電車の名前や路線を知ることは楽しい。鉄道写真家の人の番組はすごく綺麗で感動する。
一緒に笑ったり感動したり、驚いたり、踊ったり、本気でやってみることで感じる時間の尊さみたいなものを息子をみていて実感する
昨日は一緒に!?白玉団子をつくった
出来ていく過程に息子は目を輝かせて喜んだ
こんな楽しさの共有がきっと私流の子育ての要諦なんだろうとぼんやり感じる2020年の連休です。
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