見出し画像

✈️ハノーファーでの観劇記録

6月が終わるまえにこの記録を終わらせたいまおすけです。多分無理。(無理だった)
ハノーファーにいたのは2日間でしたが、Airbnbで宿泊した家の猫ちゃんが可愛くて悶絶したり、ヘレンハウゼンの庭の豪華さに驚いたりととても充実していた。

キャワイイ!!!!

Tino Sehgal"This joy”

観劇日:2023.5.19
場所:Galerie
価格:7€

ティノセーガルは実は2回目。昨年の京都で「これはあなた」っていう京セラ美術館の庭でやっていたパフォーマンスをみたことがある。それは、1人の人が笑いながら立っていて、その人の前を一般客が通るたびにその通った人だけに向けて有名な歌のひとフレーズを歌う、というもの。これを私が体験して思ったのは「うわ、めっちゃこっち見てくるじゃん気まず〜」「てか歌うま〜」「この瞬間、私のためだけの時間を持ってくれているのだなあ」私に歌ってくれたのはアニーのTomorrowだった。

そんで今回の"This joy"は、あの時の一瞬のパフォーマンスと違い60分じっくり堪能できた。王宮の中の荘厳な場所で行われた。

会場はここ。白い仕切りがあったとはいえ、上を見上げればがっつり宮殿だし声が響く。

客席は全方面にソファーがあって好きな場所に座れるシステム。
パフォーマーが6人出てきて、一人ずつ、最初は歌にもならない息づかい、動きからはじまる。だんだん人同士で動作がフィットしてきて、歌のようになっていく。アカペラ歌唱とコンテンポラリーダンスの融合という感じ。
ベートーベンの「喜びの歌」のフレーズを何度かアレンジしつつ、徐々に複数人の声が重なり、一番最後にはめちゃくちゃハイな「喜びの歌」で、観客も一緒になって歌う。みんな知ってる曲を、みんなで口ずさむ。会場は暖かく、観客も一緒に作品をつくっている感じがありよかった。

チェルフィッチュ × 藤倉大 with クラングフォルム・ウィーン『リビングルームのメタモルフォーシス』


まず、観劇した日にアフタートークがあったことをありがたく思う。アフタートークなしにこの作品を語ることは、相当なチェルフィッチュのファンでないと難しいのではないかと思う。なぜなら、チェルフィッチュの持つ身体性の上から、今回の作品オリジナルの解釈、演出が降り注いでおり、加えて音楽の演奏もあったことから初めてみる人にとっては要素が多かったのかなと思う。アフタートークを通してその情報のひとつひとつを紐解くと、「あれはそういうことか!」と腑に落ちるのだが、作品だけではどうしてそういう演出をしていたのかまでは分からない。(分からせたいのかは別として)

以下、アフタートークで語られていたことを覚えてる限り記す。

自分の空間とは

岡田:ある日、ヨーロッパのレストランに入ってご飯を食べようとした。すると、僕の前にハエが飛んできたんですね。当然僕はハエを追い払おうとしました。だってここは僕が座っている席で、僕がお金を払った僕の空間だから。でもハエにとってそこは僕の空間であるとかはどうでもよくて、ハエには別の空間の定義があるはずだ。僕が自分の空間だと思ったのはすごく「人間中心的な」考え方だったんですよね。宇宙の一つの空間を勝手に俺のものだと言っているだけ。
人間中心的ではない演劇を作ってみたかった。演劇は俳優を見るもの。美術は「モノ」。

藤倉:僕は物語をスコアすることはしたくない。岡田さんの言葉はそういう音楽を必要としていないと思った。コラボの2年目はコロナで、zoomでの稽古となったので僕も自分の部屋で見ることができた。
稽古を見て、その場で音楽を作っていた。別に言われたわけではないのに。2回目のシーン稽古ではその「作ってしまった」音楽をその場でつけて稽古してもらって役者の反応を見ることができた。

チェルフィッチュの動きについて

岡田:言葉と身体は別のことを伝えている。身体を動かすのは、言葉を発する時のイマジネーションを使う。つまり、喋りと同時に出る身体というのは喋ったことから生まれるわけではなく、喋る時に想像すること(言葉にしようとした前の感情)から生まれるもの。
僕は振り付けのためのテキストをつくりました。身体の部位を動かすものではなく、実現不可能なことが書いてあって、それを思い描くことで振り付けを作ってもらう。そのカードを100枚くらい作って、どれかをランダムに選んで作品の中で動くのに使ってもらっている。僕はどのカードが選ばれたかは知らない。

藤倉:音楽は身体の動きに関係ない。僕はバイオリニストに「あの動きってどういう意味?」と質問されてからそのカードのことを初めて知った。
Wiener Festwochenのディレクターがコラボを提案してくれた。僕の音楽はよく強すぎると言われていて、映像音楽をクビになったりもした。しかし岡田さんの作品は、音楽がなくても演劇が成立するからあってもなくてもいい。

岡田:僕は藤倉さんの音楽が作品に対して強すぎるとは思わなかった。ただ、「音楽が入る余地を残したい」と思い、リハではそれを意識した。


と、他にもいろいろあったが重要な部分だけ抜粋した。もし同じ回を聞いていた方で内容に間違いがあったら教えてほしいです。

観劇しても全然さっぱりだったのだが、このトークのあとにはいくつか作品のポイントを自分に落とし込める部分があった。
まず、女3、男1が同じリビングルームで話している。そこに謎の銀色の人物が侵入してこようとして、そのことに対し男は激しい嫌悪感を口にする。「ここは俺たちの空間だ」と言って。しかし、男がその場を離れた後に女たちは口々に男の悪口を言い出す。一人が「あいつうざい」と言い出し、それに対して「私もそう思う」「私もそう思う」と重ねる。
すると謎の銀色の人物が現れ、「嫌なら追い出せばいい」と言い、一人の女性に石を持たせる。すると女性は無言で、ゆっくり玄関の方へ向かう。
銀色の人物が、男の居場所を乗っ取る一部始終を観客は見守る。舞台前方にいる音楽演奏者も、その様子を見ている。
また、(流れは詳しく覚えていないが)後半のシーンで、クマの顔を被った人と箱を被った人の謎の二「人」(?)組が登場する。彼らは、先ほどのハエの話から着想を得ているのだろう。自分の自宅のリビングルームに他者が侵入してくることは、自分からしたら怒り憤慨する出来事だが、人ならざるものにとってはそこが誰かの家であるとかどうでもよくて、むしろ逆に自分達の場所に人が侵入して憤慨しているかもしれない。
空間を主張した男は、同じ空間を共にしていた人物からの裏切りに遭う。同じ人間同士であっても、リビングルームが誰のものかという問いに同じ考えを持ってはいなかった。空間の仕切りは、人かそれ以外かという単純なことで分けられるのではなく、もう少し複雑であると気が付く。
教育を受けて普遍的に持っている常識(人は殺してはいけないとか)は、あくまで後天的に教わるものであり全ての人が持っているものではない。「これはだめだろ」とほとんどの人が思うようなことも、その人にとっては正当な理由があったりする。日本でも耳にする、そういう常識が人と違う人が起こす事件などを思い出したりした。

私の記憶だと、クラングフォルム・ウィーンの演奏者たちと合流したのは本番直前だったと言っていた。つまり演奏者はあの作品の創作を間近でみていたわけではない。クラングフォルム・ウィーンの人らは舞台前方で演奏する。俳優は後方で演技をしている。よって演奏者はかなり目立つ。演奏がない時間、演奏者は後方の演技を見ている人もいれば、見ていない人もいる。確かに後方に演奏者がいるのも違う気がするが、前にいるのもかなり主張が強くて不思議な感じだった。ラストの方で演奏者がいる前方のほうまで俳優が出てくるが、その時の演奏者たちは演技をしている人の横に座ってどうそこに佇むか、同じ舞台に乗せられているのが少し気まずそうな感じを受けた。

https://lp.p.pia.jp/article/news/274979/photo-gallery/index.html?id=3より写真引用

チェルフィッチュの日本語のセリフ回しは、日本語がわからない人にとってどう聞こえるのだろうか。この作品は「身体」「音楽」「美術」とただでさえ情報が多いのに日本語が分かる観客にとってはそこに「言葉」が入る。セリフ回し全てを理解しようとするとかなり大変で、私は途中から流れに身を任せる楽しみ方に変えた。一方日本語話者以外は、字幕でテキスト、ストーリーを追うこととなる。これは作品の見方が全然違うのではないか。日本語話者以外にとってはセリフも音楽にしか聞こえないわけだし、面倒で字幕をちゃんと追ってない人もいたかもしれない。(ドイツ人は字幕を見るのが苦手らしい)岡田さんのトークにあったようなコンセプトまで理解して鑑賞しているというよりは、「耳と目の両方で珍しいものを体験できる」といったような外郭を楽しまれているような印象を受けた。アイスで例えるなら、「口で弾けて楽しい、味も美味しいポッピングシャワー」みたいな。
これは、是非日本語話者以外の感想も聞いてみたい。

次回→✈️ベルリンでの観劇記録3
Schaubühneのオスターマイヤー演出のかもめHAUの真夏の夜の夢TheatertreffenのЛЮТИЙ | FebrUaRYの3作品。実はまだまだあるってマジ?気長に待っていてくだせえ…!!

7/5(木)
追記
明治学院大学で行われた藤倉大×岡田利規のトークを聞いてきた。

その中で新たな発見があったので追記する。岡田さんの発言でひとつ気になったことがあった。ざっくりこのようなことを言っていた。
「演劇は考えながら見るのが楽しい。コンサートを聞く時は何も考えない。むしろ考えている時は聴けていない。考えて見た方が楽しいものと考えないで見た方がいいもの、二つあったら考えちゃう。夕鶴の経験から、オペラは音楽のための演劇だと思った。だからその演劇を通して音楽が聴こえるようにしなければならない。」

ああ、なるほどと。あれは演劇に音楽がついたのではなく、音楽に演劇がついたものだったのだなとようやく分かった。だから流れに身を任せる楽しみ方で合っていたし、むしろ音楽の存在を消してドラマだけに着目した批評を出すことは本意にずれるのだと感じた。そして舞台の前方にオーケストラが配置されていたのも、音楽の方が主役なら納得する。演劇が前方で行われていたら、どうしても先にそっちを見てしまって音楽がBGMになってしまっていただろう。
しかししかし、作り方としては芝居が先にあって、藤倉さんが芝居に合わせて作曲したんだよな。先にあったのは芝居だが、いざ舞台に出した時には音楽の方が濃くなるように調節したのだろうか。
この明治学院大学のトークでは劇中に使用された音楽の生演奏もあった。それを聴き、上演の記憶がぱっと蘇った。そして岡田さんもおっしゃっていたけれど、音楽だけで聴くとまた味わいがあって良いのだ。来年の再演の際には、あの不穏で癖になる音楽のコンサートだと思って舞台を聴き、役者の演技は音楽から立ち上がったものとして鑑賞したらどうなるか試して見たい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?