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衝動で書く

 考えていることのすごさじゃない。

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 禁断の多数決のライブに行った。

 一週間かけて練り上げた文章投稿を基本にしていたが、これはライブ帰りの衝動で書く。

 ライブの終わりに聞いた「マンチェスター・ムーブメントっぽかった」という誰かの感想に僕はあんまり同意できないけれど、その人がそのように感じたように僕もライブ中いろいろなことを考えたので。と言っても触れるのは禁断の多数決ではないが。

 禁断の多数決の前に曲を披露したのが4s4kiだった。

 最近のアーティストに疎い僕にとって今回はじめて聞いた名前だった。ライブ前、マクドナルドでベーコンレタスバーガーを食いながらWikipediaで4s4kiのことを調べた。21歳。誕生日一緒。路上ライブの動画がきっかけでデビュー。

 4s4kiは歌うとき、けして正面を向かないわけではないが、観客に身体の側面を多く見せる。それが印象的。なんだか心に来た。4s4kiにとってもステージの下手を向きながら歌うそのやり方が、いつかのタイミングで自分にしっくりきた、そういうことなんだろう、きっと。

 身体を折って吐瀉するような姿勢で歌う4s4ki。「言葉を吐くよう」なんて表現が頭にちらつきつつも、4s4kiを見ながら実は全然違うことを僕は考えていた。基本的に僕は映画やライブを観に行っても没入感をほとんど得られない。悲しいけど頭のどこかで無関係の考えがいつも浮かんできて、目の前の光景に心から入りこむことができない。それは「俯瞰」ともまた違う感覚。

 保坂和志がデヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』について「映画から手がかりを得て、観ている間ずっと無関係のことを考える」というようなことを書いていたが、それに似た感覚。保坂和志の正しい言い方がどんなものだったか思い出せない。もっといいことを言っていた。『「インランド・エンパイア」へ』という題でありながら『インランド・エンパイア』についてまったく語り出さないめちゃくちゃ長いエッセイがあり、たぶんそこで読んだ気がするがいまは探している時間がない。それは後で探すとして、とにかく、目の前にあるものに感化されて、別のものが想起されるという感覚。そしてその「目の前にあるもの」と「別のもの」に関連性はない。

 それで僕が4s4kiを見ながら考えていたのは、「考えていることのすごさじゃないんだ」ということだった。4s4kiを聴きながら「帰ってみたら音源聴いてみようかなあ」と考えているその奥で、僕は見える景色からはまったく無関係の事柄を分かりかけていた。正確に言えば、分かりかけてきたことを分かるために考えていた。

「考えていることのすごさじゃない」と痛感するのは、(こんなことダサくて書きたくないが)僕に「考えることのすごさ」で勝負したいという意識があったからだ。

 勘違いされたくないので補足すると、「考えてる俺スゲー」と誇るのではなく、このままあがいていればいつの日か僕も自分が感動した人々の足元くらいには到達できるのではないか、と願っているのが現状だ。自分のダメさを自覚し続ける日常なのだから、自分のことを誇れるわけがない。でも、いろんなダメな部分がある中で、ひとつだけ「これはまだマシになるかも」という予感があるなら、その少しだけ光っているダメな部分で勝負したい。僕は、ビジネスとか功利主義とかそういうものからかけ離れた、いまや誰もが捨て去る部分について考えたい。こだわりたい。「それを考えてどうするの」「それが分かったところでなんになるの」と必要以上に問いかけてくるこの世界に対抗したい、自分だけの考えで。

 これまでのnoteもなんとかそこに到達しようとあがいて書いたつもりのものだ。

 そういう意識でいたから、たとえばいい小説に出会うと、「すごいことを考えている人だからこういうものが書けたのだ」と思ってきた。最近では文藝賞受賞作・遠野遥の『改良』がよかった。小学校の回想からはじまる冒頭、主人公は友人から「性同一性障害」だと決めつけられる。デリヘル嬢に女装姿を見せたところ、「変態」「女の子になりたかったんでしょ」と決めつけられる。磯崎憲一郎はこの作品を「型にはめる圧力との戦い」と評していて、僕は『改良』のような作品を “マジカッコいい”と思う。なぜならこの世界では決めつけや単純化が横行しているから。

 逆に最近流行りの思考が並べられた作品は「こんなの『良い』って言うなよ」とムカつく。どこかで聞いたことのある意見は改めて聞いてみてもやっぱり面白いものではない。なぜなら、どこかで聞いたことがあるという時点で、その人の考えは想像の範疇を超えたものではないから。僕は自分では考えつかない発想に惹かれる。

 でも今日、分かった。

 世に出ている作品は「考えていることのすごさ」だけで勝負しているわけじゃないのだ。すごいことを考えている人だからいい作品を書けるわけじゃない。横文字は好きじゃない(というか使うのに照れがいる)けれど、「思考能力」と「クリエイティビティ」は違うのだ。

 考えていることのすごさじゃない。「こんなの『良い』って言うなよ」と僕がムカついたその人が勝負しているのは。そもそもそこで勝負していない。

 そして、遠野遥の『改良』も、本当は「考えていることのすごさ」で勝負していない。この世界の「型にはめる圧力」を無意識のうちに感じていた僕には、自分の感覚を言語化(小説化)している人の登場が衝撃だった。だからこの人はすごいことを考えていて「考えていることのすごさ」で勝負しているのだと、そういうふうに見えた。そう僕には見えたというだけで、実際は勘違いなのだ。正しい観察じゃない。『改良』だけじゃなく、僕がこれまで感銘を受けてきた作品は全部、「考えていることのすごさ」で勝負していない。小説は「考えていることのすごさ」だけで成り立っていない。成り立つものじゃない。

 そこに気付かず、「考えていることのすごさ」だけで勝負しようとしていた僕は、場違いの土俵で奮闘していた、というか奮闘すらできずにただジタバタしているだけだった。それに今日気付いた。

 そういうことを、4s4kiが弾き語りに移るまでの3、4曲の間に考えていた(と、僕は性懲りもなく考えたことについてまた書いている)。

 ちなみに4s4kiはこの曲が良かった。


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