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「日本的」DAOは、経済の縮退を止められるのか

「現代経済学の直観的方法」という本をご存知でしょうか。経済学という分野であるにもかかわらず、2020年にベストセラーとなった本です。

経済超初心者の自分でも、非常にわかりやすく、かつ面白い内容でした。経済というメガネを通してみると、これまでの歴史や現代の様子が、急に違う角度から見えてくるということにびっくり。

そして、この本を読むと、ひたすら成長というペダルを漕ぎ続けなければならない資本主義が招いている数々の問題の本質がわかります。同時に、どんより暗い気分になります。だって、この問題を引き起こしているペダルを止めることなんてできないでしょうから……。

けれど、ちょっとした光も感じられました。

最終章に紹介されている、資本主義的な病んだサイクルから脱するためのアイデアが、今少しずつ広がってきているDAOであったり、Pluralityであったり、web3的な動きにも通じているように思えたからです。

今回は、そういった動きを良き方向へと向かわせるにはどうすればよいのか、自分なりに考えてみました。


世界は、縮退へと向かっている

さて、この本。単なる経済学の解説本ではなく、「暴走する資本主義をどうやって遅くするか」というテーマが全体を貫いています。

そう、資本主義は暴走しているのです。

成長を続けなければならないというのは、資本主義というシステムが必然的に持たざるを得ない一つの宿命だからである。そしてそれゆえにこそ、温暖化問題なども抜本的な解決がなされないのである。
ではどうしてそんなことになってしまうのだろうか。その最も直接的な理由をずばりといえば、それは「金利」というものがあるからである。

「現代経済学の直観的方法」より

こうして始まる本書は、その後農業経済や貿易、貨幣の歴史を紐解いていくのですが、最終章ではこうした経済の拡大が「縮退」という大問題を引き起こしていることに触れています。

縮退とは、経済全体の規模としては繁栄しているものの、実際はごく一握りの超巨大企業だけが栄え、寡占化が進む状態のこと。今のGAFAMやNVIDIA、中国の巨大テック企業の時価総額を見れば、まさに寡占化(縮退)が進んでいることがわかります。

おまけに、一見繁栄のように見えているこの経済規模でさえ、実体経済とは乖離しているのが実情です。製品やサービスのために動く資金が1日で130億ドルに対し、投機のために動く資金は1兆ドル。狭い金融市場の中だけで、グルグルと目まぐるしく、巨額の資金が動き回る。そんな投機マネーが今や世界経済を動かす主役なのです。

縮退は何を変化させるのか

今の富の不均衡も、明らかに経済の縮退から来るものですが、問題なのはそれだけではありません。人の心の動きにさえ、縮退は起きています。

人の心の動きを2つの願望に分けると、金や物などへの欲望や、怠けたい・楽をしたいなどの「短期的願望」と、意欲や理想を志向する「長期的願望」に分類されると言います。

家でポチッとするだけで、物がすぐに届く時代。楽をしたい、もっと早く欲しい、こんな欲望は尽きることがありません。それを煽るように物やサービスが過剰に生産されています。資本主義の縮退が進むと、こういった短期的願望が長期的願望を押しつぶし、恒久的に抜けにくくなる状態へと固定化(コラプサー化)する、と「現代経済学の直観的方法」で指摘しています。

たしかに、ITによる効率化で余った時間をどこに使うかといえば、スマホでSNSを見たり、それによってまた別の物が欲しくなったり……。自分自身でも、長期的よりは、短期的な欲望に支配されつつあることは、実感としてわかります。

近代以前は、伝統や慣習がこういった短期的願望を歯止め役になっていたようです。少し視点は異なりますが、司馬遼太郎は文明と文化という観点でそれを言い表していました。

例えば青信号で人や車は進み、赤で信号は停止する。この場合の交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいう、婦人がふすまをあけるとき,両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという、合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ、文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこみわけにいかない。だからこそ文化であるといえる。

「アメリカ素描」司馬遼太郎

文明とは、普遍的・合理的・機能的なもの。文化とは、不合理・国や地域など特定の集団においてのみ通用し、他に及ぼしがたいもの。文化を置き去りりにして文明が発達することで、そこにしかない魅力が薄れ、物質的豊かさのみ追い求める心が強くなりました。

長期的願望を保つには

とはいえ、長期的願望を取り戻すために、慣習を復活させ不便な暮らしに後戻りさせればよいのかというと、それはまた違うと思っています。文明と文化の、あるいは短期的願望と長期的願望の、バランスをとった発展の仕方はないのでしょうか。

昨年、神奈川県真鶴町を訪れ、その温かく美しい町並みに驚いたことがありました。

真鶴は、リゾート開発や高層マンション建設の波をくぐり抜け、ここにしかない美しさを保ちながら発展してきた町です。

神奈川県の真鶴町は、高層マンションやショッピングモールのような商業施設はなく、昔ながらの小さな家が建ち並ぶ美しい町。そうした町並みを守った存在として『美の基準』があげられる。『美の基準』は1993年制定、翌年から施行された「まちづくり条例」だ。場所、格づけ、尺度、調和、材料、装飾と芸術、コミュニティ、眺めという8つの観点から、まちづくりを定義している。それぞれのキーワードは、平易ではありながらも、文学的とも思える言葉で表現され、読む者の想像力をかき立てる

雛形」ウェブマガジンより抜粋

1989年、開発抑制の強化を公約に掲げた町長が中心となり、町の職員・建築家・住民と一緒になって、「どういう町でありたいのか」と何度も議論を重ねたと言います。そうして出来上がったのが、まちづくり条例の「美の基準」です。

「美の基準」は、決してわかりやすい文章で綴られているわけでも、具体的な数値が示されているわけでもありません。むしろ詩的で、一読してわかりにくいからこそ、よく考えて対話を進めながらまちづくりが進むのです。

リゾート化への開発(短期的願望)に応じていたら、その時だけは町の財政は潤ったかと思います。けれど、眼をつむり、真鶴本来のあり方を真剣に考えた(長期的願望)結果、どうなったのでしょうか。住民は町に誇りを持ち、さらに真鶴にしかない良さに魅力を感じた移住者が増えていると言います。

どうありたいのかよく考えること、そしてすぐに結果を求めず、よく話し合うこと。真鶴に訪れて、長期的願望を保ちつづけるには、ビジョンとそれに沿った地道な対話が必要である、ということに気付かされました。

「日本的」DAOの可能性は

いっぽう、「現代経済学の直観的方法」では、縮退を止めるためのアイデアを、碁石をヒントにして解説されていました。

白石を呼吸口(活路)とし、この呼吸口を極大化する方向という原理に基づいたうえで、どういった碁石の状態が、縮退が止まったものであるのかと考えています。

図:「現代経済学の直観的方法」より

上記図の「a」では、個人がバラバラで内部には呼吸口を持たず、外側に呼吸口を求めています。内部に呼吸口がないため、買い物依存症のように早く動いて呼吸口を確保しなければならず、消費速度も速くなければなりません。

一方、「b」では、多くの石は互いに繋がって呼吸口を共有し、内部で呼吸をまかなわれています。こういった状態であれば、内部のやり取りで満足感を得られ、消費活動は日々の消耗分を補うだけですみ、精神的な面からは経済はゆっくりとした状態でも維持ができます。

aのように社会全体が完全にばらばらな個人主義的な状態になっていると、人々は短期的な願望でしか動くことはできない。一方bのような状態だったなら、呼吸口自体も複雑なつながりの中で発生するので、かなり長期的な願望でも社会的に十分に成り立つことになる。

「現代経済学の直観的方法」より

江戸時代は、家とは別のコミュニティとして、連、社、会、座、衆、組、結、講などがあったといいます。座は俳諧、組は若衆組などの集落のコミュニティ、結は屋根を葺いたり、風呂の共有など協力関係を表現していました。

数年前からweb3のコミュニティに入っていますが、この江戸時代の繋がりに、似たものを感じています。というのも、日本の場合は海外とは違って、投機目的に人が集まるのではなく、学び合い、教え合うコミュニティが非常に多いのです。いろんなバックグラウンドがある人たちが、会社名などの属性から離れて、コミュニティ上だけで通じる名前で、さまざまなことを話し合っています。

もしコミュニティやDAOが、長期的願望な目的のもとで、真鶴にあるような「美の基準」を定め、対話を続けながら活動できる場であれば、そこを呼吸口として、縮退による閉塞感を抜け出せることができるのではないか、そんな風に思っています。

テクノロジーで、適切な多様性を

もちろん、文明を推し進めたテクノロジーが悪者だとも思っていません。短期的願望ではないテクノロジーの使い方として、オードリー・タン氏とグレン・ワイル氏が提唱しているのは、違いを認識し、尊重し、協働のためにテクノロジーの利用する「Plurality」という考えです。例えば、熟議のためにAIを使う、あるいは少数派の意見を取り込むためのクアドラティックボーティングなどの案が提示されています。

「多様化」は寡占化を防ぐために一見有効のように思えますが、誤った多様化はかえって縮退を加速させると言われています。選挙でも、全員が異なる主張をしたことで、結局は単一の強者だけが勝利することがあります。だからこそ、テクノロジーを利用して、「適切な多様性」にすることが重要なので
す。

真鶴での美の基準ではないですが、オードリー・タン氏は詩的にPluralityをこのように表現しています。

When we see "internet of things”,
how to make an internet of beings?

When we see "virtual reality,"
how to make a shared reality?

When we see "machine learning,"
how to make collaborative learning?

When we see "user experience,"
how to make a human experience?

When we hear "the singularity is near,"
let us remember:
The plurality is here, don't surrender.

動画「Audrey Tang Remarks in Plurality Seoul」より

テクノロジーによる多様性の尊重、DAOやコミュニティでの話し合い、対話を通じたビジョンの醸成。それらが縮退を止めるひとつのピースとなりえるのかもしれません。

ただその一方で、本当に「DAOである必要性」はあるのか、とも思っています。トークンによる貢献の可視化、情報のオープン、公平性といったことは言葉としてはわかります。でも、その公平を保つコントラクトを決める際はどうなのでしょう。「自律・分散」という言葉がどこまで実践できるのか、そもそも自律・分散はどういったことなのか、いまいちピンときません。

DAOやコミュニティと謳わなくても、今までの社会形態でできることはあるのではないか。例えば真鶴のように……。耳に心地よい言葉だけに踊らされず、かといって、批判的ばかりにはならず、コミュニティでの活動を楽しみながら探っていきたいと思っています。


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