南十字星の行方(宮沢賢治 追悼コラム)
1章 はじめに
1896年8月27日岩手県花巻市に、生前ほとんど評価されず
死後なお評価され損ねているある作家が生まれます
――宮沢賢治
岩手県をモチーフにしたイーハトーブという世界観を創り出し
自分の信仰と生の理想を、その世界の創作の中で表現し、そして救済しようとした無名の、そして高名な作家です
彼自身を代弁する作品はいくつかありますが、「銀河鉄道の夜」はそのひとつでしょう
「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の代表作の一つで、少年ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗って様々な星や惑星を巡る物語です。この作品は、宮沢賢治が自らの生い立ちや思想、宗教観などを反映させたもので、現実と幻想が入り混じった独特の世界観を展開しています
すこしそのストーリーを追って紹介しましょう
(シーン01)
物語は天体の授業をしているシーンから始まります。ジョバンニは、貧しくて病気の母親を支えるために働いている少年です。学校では友達が少なく、天の川についての授業にも興味を持てません。
カムパネルラは、ジョバンニの唯一の親友です。ジョバンニのことをよく知っているので、授業で彼が恥をかかないよう気を使ったりします。ジョバンニもそのことがよくわかっているので、カンパネルラに対して遠慮や申し訳なさのようなものを抱きつつ、深い友情を感じています
ジョバンニは放課後に活版所でアルバイトをします。仕事を終えた後、母親に牛乳と角砂糖を買って帰ろうとしますが、牛乳屋に行くと牛乳が配達されていないことに気づきます。家についたジョバンニは母親にそのことを話します
このシーンで、母親が病気で体が弱いことや
父親が不在であること、北方へ漁に出かけているらしいことなどが描かれます
ジョバンニは母に銀河のお祭り(烏瓜のあかりを川へ流す)を見に行くと言って家を出ます
(シーン02)
ジョバンニは牛乳屋に行きますが、結局牛乳をもらえず、帰り道には同級生のザネリたちにからかわれます。そのときカムパネルラが一緒にいることに気づきますが、彼はジョバンニを助けることができず申し訳なさそうな顔をします。哀しくなったジョバンニは一人で町外れの丘へ行きます
丘でジョバンニは寂しく星空を眺めます。すると突然、「銀河ステーション」というアナウンスが聞こえてきて、目の前が光に包まれます。そして気がつくと銀河鉄道に乗っていることに気づきます。そして、隣には何故かカムパネルラがいます
こんな風に、銀河鉄道の夜は唐突に始まるのです
(シーン03)
ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道で様々な星や惑星を訪れます。白鳥座では化石を拾ったり、プリオシン海岸で発掘をしている大学士と遭遇します。鷲座では鳥捕りと出会い、雁の形をしたお菓子をわけてもらったり、アルビレオでは検札されたりします。途中で青年と姉弟が乗ってきますが、話すうちに彼らが客船事故で死んだことが分かります。そしてこのとき、この銀河鉄道の乗客はみな死者たちであることが仄めかされます。またジョバンニが持っている乗車切符は、乗客たちが持っているどの切符とも違う特別な切符であることが明かされます。ちなみに青年と姉弟のうち、お姉さんの方とジョバンニは仲良くなりますが、このとき列車の窓から見えていた「蠍の火」の話を彼女から聞きます
(シーン04)
最後にサウザンクロス(南十字)に着きます。ここでは青年や姉弟を含め多くの人々が降りていきますが、ジョバンニとカムパネルラは「ほんとうのみんなのさいわい」のために一緒に歩こうと約束し、車内に残ります。しかし突然、車窓に石炭袋が見え、ジョバンニは大きな恐怖に襲われます。怖くなったジョバンニはカムパネルラを見て励ましあおうとしますが、カムパネルラは気の乗らない返事をしたのち、綺麗な野原が見えると言いだし「あすこにいるのぼくのお母さんだよ」といい残して、いつの間にかいなくなってしまいます。カムパネルラの見えた綺麗な野原はジョバンニには見えず、ふと振り返るといなくなっているカムパネルラに気づいて彼は泣き出してしまいます
(シーン05)
ふと気づくと、ジョバンニは丘で目覚め、いままでのことがすべて夢だったと気づきます。町に戻ると、カムパネルラが川に落ちたザネリを助けた後、溺れて行方不明になったと聞きます。カムパネルラの父親は既に諦めている様子で、ジョバンニに「彼の父親から手紙があったこと」を知らせ、父親がもうすぐ帰ってくる事を伝えます
胸の中がぐちゃぐちゃのままジョバンニは、母親の元に帰るシーンで、物語は終わります
この物語は、ジョバンニの成長と夢と現実の狭間で揺れ動く心情を描いたものです
銀河鉄道は、死者の魂が天国へ向かう道であり
カムパネルラや青年たちはすでに死んでいることが暗示されています
ジョバンニは何故、彼だけ特別な切符を持っていたのでしょうか
作中で登場するカムパネルラは、宮沢賢治にとっての誰だったのでしょうか
この作品は妹のトシが死んでおよそ二年後に最初の原稿が書かれたと推定されていますが
そこから実に6年もの間推敲を繰り返され、その間に四つもの異なるエンディングが作られました
何が彼をそこまで悩ませたのでしょうか
作品は生前ではなく死後に有名になり、それゆえに
人生において
偉大なる思想の敗北
信念における大きな錯誤
自らの生み出した文学に対して抱いていた祈念
その一切を、死をもって覆い隠されてしまった
悲劇の作家「宮沢賢治」
今日は彼について、ほんの少しだけ掘り下げてみましょう
2章 宮沢賢治の世界的評価
宮沢賢治の人生について話す前に
すこし彼の作品が世界から見てどのような位置づけにあるのかを確認しておきましょう
率直に言って、宮沢賢治は世界的な作家になれなかった人と言うことができます
オーストラリアの作家で、東京工業大学の名誉教授であるロジャー・パルパースさんはこう述べています
『日本の文学は、高度経済成長期を抜け以降、あまり世界に注目されることがないままに21世紀を迎えている。海外の人々が日本の文学について話すとき、最初にあがる名前は「川端康成」「夏目漱石」「芥川龍之介」「太宰治」あるいは「三島由紀夫」「谷崎潤一郎」などで、宮沢賢治はどうしてもその後塵に位置づけられるきらいがある。そうこうしているうちに、村上春樹や吉本ばななのような作家が出てきて、そちらの方が世界中で読まれるようになってしまった。いずれも日本的な小説を書く作家ではなく、どこか外国の海の向こうの話を書くような人達で、そうであればこそ宮沢賢治は評価されてしかるべきなのに、どういうわけかそうならなかった』
この背景として、宮沢賢治が日本の文学史の枠組みから外れていることを教授は指摘します
海外の人々が日本の文学を自国に翻訳したり研究するとき
どうしても世界的に評価が確立した作品に目を向けたがる傾向があります
宮沢賢治は東北の岩手県出身ですが、何度か東京に訪れたことがあります
生涯に二つ、詩と童話を一冊ずつ出版して販売したことがありますが
販売当初、彼の作品の一切は評価されませんでした
ひとつは、彼が東北の岩手訛りがある人物であったからです
彼の作中で使う方言や独特な文体は、ある種の田舎くささを思わせ、日本の文壇や批評家・編集者からは当時のモダンから外れた存在として認識されていました。宮沢賢治以外の東北出身者に石川啄木や太宰治などがいますが、彼らの多くは自分の出身の訛りを作品の中では出さず、中央の標準語を用いて作品が東京で受け入れられるようにしていました
ふたつめは、早い時期に彼が童話作家・幻想作家として認識されてしまい、彼の作品が文学として認識されるまでに時間がかかったことがあげられます。賢治自身が物語に書き綴る出来事や描写は、すべて彼自身が見たことや感じたことを忠実に描写したものなのですが、世界そして母国・日本においてすら、彼の作品をファンタジーではなく文学であると認識するのは簡単なことではなかったのです
そしてみっつめ、ここが大きいところなのかもしれませんが、彼の作品には彼自身が持つ信仰、いわば宗教が色濃く反映されています。それは哲学でもあり思想でもあり、しかしそれでもやはり信仰でした。彼の所属する信仰たる仏教・法華経――これらのバックグラウンドが、作品の持つメッセージ性を容易には理解しにくいものにしたことは想像に難くありません
20世紀は世界が日本文学を発見したとも言える時代であり多くの作家が見いだされましたが、このように宮沢賢治は母国ですら無視された存在だったため欧米諸国に見つけ損ねられてしまいました
また時代が移り変わって外国人が日本に訪問できるようになり、実際に移り住んで日本の文化に触れる事が可能になると、今度はそれまでの日本の古典文学は古いと見なされてしまうようになりました
したがって現代において、日本を代表する作家とは村上春樹ということになり、黎明期の日本文学を牽引してきた作家達はこうした時代のすきまの中にとどまることになりました。それは宮沢賢治についてもまた同じだったというわけです
世界的にも海外からも長い間見失われてきた宮沢賢治。
生前は母国においてすら評価されず、死後に見いだされて評価された彼の人物像は、意外にも多くの資料が現存しており――それを通して、いまの私たちでも彼自身の輪郭をある程度知ることができます
銀河鉄道の夜で
ジョバンニやカムパネルラが降り損ねた南十字星(サザンクロス)
宮沢賢治が銀河鉄道の行先として設定しながら、結局降りることなく通り過ぎたあの駅は、彼がしあわせの代名詞として仮設定した南十字星がほんとうはなんなのかを示唆するモチーフだったのかもしれません
3章 アザリヤへの道
「石っ子賢さん」の誕生
宮沢賢治は、1896年8月27日 岩手県稗貫郡(ひえぬきぐん)里川口(さとかわぐち)町、現在で言うところの花巻市に生まれました。実家は質屋および古着商を代々営んできた名家で、五人兄弟の長男として、父・政次郎と母・イチとの間に生まれました。もともと母方の実家も幅広く商売を営む、岩手県有数の資産家であり、賢治は大変裕福な親の下に生まれたことが窺えます。
彼は明治時代の後期に生まれ、大正時代~昭和初期を生きましたが
このころの日本は三陸大津波や陸羽大地震、東北大飢饉、関東大震災といった大きな自然災害のみならず、日露戦争、戦後恐慌、第一次世界大戦、世界恐慌、満州事変、首相殺害といった歴史的に大きな出来事がたくさん起こった期間でした。
時代はまさに社会主義を標榜するソ連が現れた時期であり、日本においても同様の政党が生まれ、日本が混迷としつつも新たな思想や体系を作ろうとしている、まさにその渦中に宮沢賢治は生まれたと言えます
宮沢賢治の実家は古くから宗教者との交流があり、夏季には仏教講習会の開催をするなど、浄土真宗の篤信家でもありました。伯母にヤギという政二郎の姉にあたる人物がいますが、三歳の賢治は彼女が唱える「正信偈(しょうしんげ)」や「白骨の御文章(はっこつのおふみ)」といった念仏を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたといいます。また盛岡中学校を卒業してから盛岡高等農林学校への入学の間に、法華経の経文を読んで非常に強く感銘を受け、以降の彼の文学性にこうした仏教的世界観は強い影響を与えるようになります。
また宮沢賢治の生きた時代は、様々な流行病が人々を襲った時代でもありました
赤痢菌の蔓延や天然痘ウイルスが見つかった時代でもあり、ペストが流行しました
宮沢賢治も六歳のときに赤痢菌に侵され、盛岡中学校を卒業した18歳ではチフスにかかったりしましたが、いずれのときも父・政二郎が看病中に感染しており、このことは賢治を強く苦しめました
また後に賢治が悩まされる肺湿潤や、賢治の身の回りの人の命を何人も奪うことになる肺結核も猛威を振るっていました
「石っ子賢さん」の小学校時代
花巻市の川口尋常(じんじょう)小学校に入学すると、賢治は優秀な成績を収めるようになります。
この頃に、賢治の童話作品に強い影響を与えたとされる八木英三との出会いがあります。宮沢賢治の3年生と4年生を担任した彼は生徒たちにさまざまな本を読んで聞かせおり、後に宮沢賢治自身は「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と述べたそうです。
この頃の賢治は六学年すべてで成績は全甲、学校からは優秀賞と精勤(せいきん)賞をもらうなど、勉学の面でも私生活の面でも闊達で、自身の美的感性を花巻の自然とそこにいる人達を通してのびのびと成長させていた時期と言えるでしょう
その顕著な例が「石コ賢さん」と周囲に言わしめた、彼の鉱物集めです。
20世紀初頭は鉱山開発の黄金時代でもあり、特に岩手県などを代表とする東北地方は21世紀の現代においても砂金を川で採ることができるほどの鉱脈に恵まれた土地。賢治は学校の行き帰りの道ですら、周辺の鉱山から運ばれた砂利の中に、黄鉄鉱や微細な紫水晶などを容易に見つけることができました。
今でも宮沢賢治の記念碑が置かれている浄土ヶ浜のビジターセンターでは、岩手県の海岸沿いが多種多様な地形を持っており、それぞれの海岸がまったく異なるタイプの石や砂で出来ていることなどを展示資料として一般公開しています。
いくつか例をあげましょう。
吉里吉里(きりきり)海岸では「鳴き砂」と呼ばれる種類の砂が海辺の浜一帯をびっしりと満たしています。
石英粒を多く含む砂が多いと、ちょっとした人の足が踏み込んだ時の重さや、堆積した砂自身の自重あるいは風などによって砂が動くとき、粒子同士が触れあって鳴くような音を立てることからこの名前がついています。
同じ石英質の砂浜としては浪板(なみいた)海岸も有名で、こちらでは砂浜が粒子の荒い石英で形成されているため、寄せる波はあっても返す波が吸い込まれて消えてしまうという世界でも珍しい「片寄せ波」を見る事が出来た稀有な海岸でした。
その他、末崎半島の先端近くには、泥からできた黒色頁岩(けつがん)という堆積岩の一種を見ることもできます。頁岩は太古の泥が押し固められてできたものですが、ここの海岸で観測できる黒色頁岩は、波によって崩れ、洗われ、丸石のようになっており、まるで囲碁の碁石のようなので、碁石浜(ごいしはま)と呼ばれています。他にも、長い間大理石の採掘場所となってきた石灰岩層を保有し、ウニやヒトデ、アンモナイトといった化石を見つけることができる大理石海岸、砂鉄が堆積している根浜海岸、碁石浜同様に古生代ペルム紀後期の頁岩などから太古の植物の化石を見る事ができる粘板岩(ねんばんがん)地帯の大谷海岸。今から約2億5千万年前、中生代前期三畳紀に生息していた魚竜などの化石を内臓しており、地質学における日本を説明する上で貴重な大沢層と呼ばれる地層を持つ大沢海岸などです。わずかひとつの県の中でこれだけ多種多様な地層を持つ場所は少なく、後にイギリス海岸と彼が名づけた川床では今でもクルミの化石を採取できます。
十歳頃からはじまったとされるこの石集めの趣味は、後の彼の作品にもさまざまな鉱石たちを登場させる土壌となっただけでなく、彼が生まれて育ったイーハトーブの元となった岩手県が持つ自然の多種多様なさまから彼がどんな影響を受けてきたかを読み取る資料でもあります。
「石コ賢さん」の旧制中学校時代
鉱物採取に熱中していた賢治をさらに石へと駆り立てたのは、旧制森岡中学校で出会った「鉱物界」という教科書でした。いわゆる文字だけの地学教科書とは異なり、魅力的な文章と美麗な食刻(しょくこく)で鉱物が描かれたいわば鉱物図鑑は、彼の知的好奇心を強く刺激し、休みのたびに近郊の野山で植物や鉱物の採取にあけくれるようになります。
蛇紋岩、かんらん岩、玄武岩、閃緑岩、はんれい岩、砂岩
玉髄、黄銅鉱、黄鉄鉱といった鉱物まで
花巻市の川原には上流の地層からさまざまな鉱石が流れこんできました
丁度この頃旧制森岡中学校(いまでいう6年生の中高一貫校)に入学し寄宿生活に入ることで解放感を得た宮沢賢治は、14歳の夏に岩手山を初登山してから勉強を放り出して登山にやみつきになり、また山歩きや鉱物採取だけでなく文学や哲学書をも読み漁るようになります。
この時期に文壇では石川啄木が登場し始め、彼の「一握りの砂」に感銘を受けてから、賢治の表現者としての一歩が始まります。すなわち、短歌の制作です。
これらはこの時期彼がどのような生活をしていたかを
まざまざと読み取ることのできる短歌のほんの一例です
「石コ賢さん」森岡高等農林学校
賢治の寄宿生活はすべて解放感と充実感による幸福なものだけだったかと問われれば、そうではなかったと言わざるを得ないでしょう。その時期に読んだ哲学書や思想書は、同時に多感期の彼に青年特有の反抗期を産みました。また質屋の跡取りとしての未来を期待されていた彼は、進学が許されていなかったこともあり、もともと放りがりであった勉学に身が入らず成績不振、家業への嫌悪もありよりいっそう文学に傾倒するようになります
質実剛健の印象がある賢治ですが意外にも身体が弱く、特に運動神経が鈍かったために、体操科目では軍人上がりの教師によくなぶられていたそうです。また同様に、後に高等農林学校を主席入学する彼が、この時期にもっとも苦手としていたのが数学、特に代数と幾何学、そして化学だったそうです
五年次の席次は八十八人中六十位
家業があり成績もおぼつかない彼は、鬱屈と落胆の中で中学卒業後さらに持病の鼻炎手術のため、岩手病院に入院することになります。ここで出会った看護婦の高橋ミネというほぼ同い年の女性に初恋をし、その20年後に病に倒れるまで彼の女性観といったものを強く固定する出来事があり、結婚を父に願い出て却下されたりしているのですが、なにはともあれあまりにも落胆している賢治の様子を身かね、妹のトシの後押しもあってその年の八月に高等学校への進学受験を許されます
実はこの時期に、実家の真言宗とは異なる法華経の経文を読み、震えるほど感動して後に改宗までしてしまうのですが、そのことが後の彼の人生におおきな衝突と後悔を産みます
宮沢賢治の宇宙的世界観
森岡高等農林学校に進学すると、宮沢賢治は地質調査にあけくれるようになります
後に火山灰土壌研究で農学博士となり、東京農業大学でも教鞭をとるようになる関豊(せきとよ)太郎との関わりは、勉学不振に陥っていた中学生時代が信じられないほどの学業優秀を示しています。気難しいことで有名だった関豊教授ですが、夏季実習で森岡近辺の地質調査に賢治たちをつれていき、こうした活動に賢治は大いに刺激を受けるようになります。関豊教授の方でも賢治を信頼しており、彼を高等農林学校に残らせようと研究に誘ったりしています。ちなみにこの関豊太郎教授が、後に宮沢賢治が書くグスコーブドリの伝記の登場人物であるクーボー大博士の元になったのではないかと考えられています
この時期の彼の愛読本は「科学本論」。これを読みながら日夜、本格的な地質学、鉱物学、土壌学、化学に明け暮れた彼が研究室で慣れ親しんだ分析器具、試薬類や冷却管、装置といった実験器具は、後々の宮沢賢治が描く詩や童話の中にも出現します。高等農林学校時代にも鋭意に文芸制作をしていた彼は、文字通りこの研究室で作業をしながら、童話世界での架空の実験や登場する鉱物たちのイメージを膨らませていたに違いありません
こうした関豊教授と過ごした歳月は、賢治を優れたフィールドワーカーに成長させてゆきます
積み重ねてきた緻密な化学分析や土壌の染色分析といった最先端の技術と度重なる地質調査は、宮沢賢治を一目地層を見ただけで、その地層の成り立ちから土壌と植物の生育関係を読み取り、数億年前、あるいは数万年後の地層の状態すらをもありありと幻視する能力を与え、それが間違いなく彼の創作においても強力な武器になります
当時の科学界から見た宮沢賢治の宇宙観
おおむね、森岡高等農林学校での宮沢賢治は成績優秀で勤勉な学徒だったといえるでしょう。地質調査を旨とした山野でのフィールドワーク、学内での文芸活動、仏教の研鑽研究が主な彼の生活だったと考えられますが、この時代は実は化学の世界でも転換期でした。物質の科学として「電子の存在」が提唱されはじめ、相対性理論が「エネルギーと物質は本質的にひとつの同じものである」という真理を示し始めていたまさにそのときに、宮沢賢治は自然科学の世界にいたと言えるのです
これは彼が、自分自身の頂く仏教的世界観に科学を加える上で大きな位置を占めるようになりました。科学者はその鍛えられた直観によって、五感を超えた感覚を働かせ、この世の理の一部を理論に置き換え落とし込みます。それははからずも、賢治が仏教によって形作ってきた世界認識に科学的な視点を加えた宇宙観を形作らせるまでに至りました
現代宇宙論では、いま生きるこの世界はおよそ百五十億年前の「無の量子的揺らぎ」から突如として限りなく熱く、ちいさい一粒の光として誕生します。このたった一粒の光が物質のもととなる基本粒子であり、この粒子の渦巻きがやがて原始銀河となり、星となり、星の中の生態系となり、生態系の中の人間を造るのです。したがって、生命のもとになるすべての原子たちは、星が輝く過程の核融合反応の結果造り出されたものだと言えます。星々が寿命を終え、燃料を使い果たして超新星爆発(スーパーノヴァ)として一生を終えるとき、宇宙にばらまかれる生命の材料こそが、その凝縮が新たな生命としての地球を作り、人間を作るのです
こうした宇宙観は当時まだ理論に過ぎなかった相対性理論によって飛躍的に受け入れられるようになった、当時まだ黎明期に過ぎなかったひとつの科学理論がもたらしたものですが、宮沢賢治は既に自分のバックグラウンドである仏教と科学の二つの柱を支えに直観的にこの宇宙観を持っていたと思われます
それは、生きとし生けるすべてのものはみな、もとはひとつのたましいであり、人に限らずすべてのものはみなきょうだいである、という言わば「みんなむかしからのきょうだい」思想とでも言うべき宇宙観です
ベジタリアン生活
この「みんなむかしからのきょうだい」思想を決定的にしているのが、森岡高等農林学校での生活のどこかから開始されたと思われるベジタリアン生活です。彼は独特の仏教的輪廻感から生き物の肉体を食べる事を忌避しており、彼の信仰である法華経が彼自身に示す生き方の道理を「食い食われる関係からの離脱」へと向かわせました。この思想は、彼の作品にも見て取れ「よだかの星」「なめとこ山の熊」でも登場人物が他人の命を奪って生きる自分自身を醜いと自罰的に嘆く描写があります。
高等農林学校の特待生枠に入った宮沢賢治は、勉学に励む傍らで朝晩の読経を欠かさなかったといいます。
そんな彼は「大正生命主義」とでも呼ばれる思想に強い影響を受けました「この世界はただひとつの生命であり、その多様な表れが個々である」とするこの思想は、まさに賢治が抱いていた「みんなむかしからきょうだい」そのものです。
生き物の体を食べようとするとき、それは自分が親兄弟や家族の肉体を食べようとすることと同じだと賢治は考えていたのです。こうした彼の信仰心は、ベジタリアン生活に代表される、出家と禁欲を是とする生き方へと繋がっていきます。
ビヂテリアン大祭の抜粋を読むと、彼が信仰故に菜食主義を貫こうとしていることがよくわかります。
「キリスト教の精神は――あらゆる生物に対する愛である。
どうしてそれを殺して食べることが当然のことであろう。
仏教の精神によるならば慈悲じひである
――だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。」
国柱会
そういう意味で、賢治が国柱会の熱心な信徒であったことは頷けることです
賢治は高等農林学校を卒業してすぐ父と信仰の点で仲違いを起こしてしまします。実家の信仰は真言宗でしたが、賢治が傾倒していた法華経は日蓮宗だったからです。
純正日蓮主義をかかげる国柱会は賢治にとって理想そのもの
しかし国柱会は八紘一宇(はっこういちう)を標榜しており、「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を掲げていました。そしてそのせいでしばしば社会主義運動もしくは全体主義運動のように捉えられ、さまざま人達から警戒されていました。
こと信仰においては芸術と同様に生き方から貫徹させようとする賢治は
国柱会に入会したのち、町内を歩き回って寒修行をしたり、自分の親族友人を勧誘したりします。
こうした行いが父とのいさかいを産み
以降、病床にあった最愛の妹トシが喀血したことを聞くまで
賢治は国柱会の活動のために東京に出奔したまま岩手に帰ろうとはしませんでした
妹トシの存在
高等農林学校に入学するのと同時期に、最愛の妹トシも東京・目白の日本女子大学家政学部に入学しています
才女のトシは高等女学校の最終学年において、芸術への憧れと共に同校の男性音楽教師に対して恋心を抱いていましたが、卒業間際に真偽織り交ぜたゴシップ記事を書かれて地元の新聞に掲載されるなど、故郷を逃れざるを得ないような状況にいました
進学後のトシは賢治が通う農林学校の寄宿舎に毎週のように手紙を送っていたといいます。当時日本女子大学の校長は成瀬仁蔵という人が務めていました。すこしこの成瀬仁蔵について掘り下げてみましょう
成瀬仁蔵は7歳で母を失い、16歳のときに弟と父を失い、死に向き合う体験をもちます。同郷にアメリカに留学し、宣教師として著名になった澤山保羅(ぽーろ)がいますが、成瀬仁蔵は彼に導かれて大阪の浪花教会で洗礼を受けます。当時の男尊女卑が抜けない日本社会に生きていた人々にとって、キリスト教との出会いはいわゆる儒教的な、ある種女性を劣った者としてしか見られなかった人間観を脱ぎ捨て、男女はみな神の前で人間の平等を持っているという認識を得る飛躍をもたらしていました。こうして宣教者の一人となった成瀬は女学校での主任教師や教会牧師といった活動を経て、新潟で女学校を興し女子教育に尽力するようになります。また明治末期には自らも欧米へ渡り、二つの神学校と大学で女子教育の研究と調査を行うようになり、いくつかの著書を出版するようになります
彼は女子教育の方針を以下のように述べています
これは女性が人として自立し活動することを求めるものでした。
また同じ時期に資金難と戦いながら東奔西走し1901(明治34)年に日本女子大学を開校しています
当時の日本女子大学には、夏目漱石の門下生であり、哲学科を卒業して後に「人格主義」という本を出版することになる阿部次郎や、インドの詩人でダゴール国際大学の創立者でありアジア人として初のノーベル文学賞を得たラビンドラナート・タゴールといった人物が講師として招かれました
こうした環境は校長である成瀬仁蔵の願う「自分と宇宙との正しい関係を求める」よう学生たちを啓蒙する上で大いに貢献したと考えられ、ここに通うトシはこれまで実家の信仰である真言宗をバックグラウンドにすることによって育まれてきたものとは異なる宗教的人格形成の学びを得ることができました。これらはすべて賢治にも大きな影響を与えたに違いなく、後に彼が「宇宙意志」とでも呼ぶような価値観の中に、一神教的な性格をも取り入れる上で大きな存在となったことは、彼の作品の中に仏教のみならずキリスト教の香りもややすることから感じ取ることができます
トシは日本女子大学卒業直前で病にかかって入院しますが、見込み点を貰って卒業認定され、四か月程の療養を経て回復した後は、母校である花巻高等女学校に勤務するようになります。この時期に実家に反抗して東京に出奔していた賢治は、彼女の病状を聞いて一度実家のある岩手に戻りましたが、ほどなくして国柱会へ入会と活動のため、東京へと家出してしまいます。この時期はおそらく賢治にとって、農林学校に入学する直前同様、人生の進路に迷っていた時期とらえることができます。創業後に研究生となることで二年ほどの猶予ができたものの、自分が抱く法華経への信仰や創業後の進路に対して父と意見が合わず、関教授からは助教授を推薦され大学に残るよう希望されますが、辞退して人造宝石業を始めようとしたりします
結局、賢治は国柱会での活動を続けるわけでも、東京で宝石業を始めるわけでもなく、生家のある岩手県で教職を得ることになります。妹トシの病状を聞いて、居ても立っても居られなかったのでしょう。それほどまでに妹トシの存在は、宮沢賢治にとって大きなものでした。
教職時代の宮沢賢治
妹トシの病状を受けて故郷の花巻農学校で教職を得る事になった宮沢賢治ですが、結果的にその時代は彼にとって鉱石採取に夢中になっていた十代前半と同じくらい充実した時間をもたらしました。地質学、化学、鉱石学、植物学に精通した彼は子どもたちに教える事のできる充分な知識を持っていましたし、それまでに培われてきた詩作や童話などの創作は、仏教の信仰を通して培われたもの以上に彼を情操教育において優れた教育者にしました
もともと父とは職業と信仰を巡って対立していたわけですが、理想主義的で観念的に過ぎるところもある賢治に、農学校教諭という自分の専門知識を生かしつつ分かりやすく職業があるということは、良い事ととらえられたようです
実際、賢治にとっても農学校教諭として勤め上げた四年間は充実したものだったようで、後に春と修羅の第二集で「誓っていうが、わたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」と述べています。それは彼の創作活動にも強く表れており、宮沢賢治の「春と修羅」に収められた詩、および「注文の多い料理店」に収められた童話のほとんどはこの時期に制作されました
注目されないながらも、それらは地元の新聞に掲載され、その翌年には自費出版で作品を発表するようになるわけですが、実際のところそのほとんどの物語は妹トシのために書かれたといっても過言ではありませんでした
妹トシの存在を作品から読み解く
妹トシは母校に勤務するようになってから、自分の心と向き合うべく「自省録」という手記を書き綴るようになりました。それは彼女の女学校時代の挫折を踏まえた心の軌跡の記録であり、同時に日本女子大学で彼女が得た新しい信念に向き合おうとするものでもありました。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と宮沢賢治が述べたことは有名ですが、賢治のこうした強い自己犠牲と無私の利他心は、妹トシがこの「自省録」の中で書いた「凡ての人々に平等な無私の愛」という信念に強い影響を受けています。女子大学時代からたびたびトシと文通で交流をしてきた賢治は、生前の妹トシの懊悩と、それを乗り越えた先の決意すべてを知っていました。彼女の母校を通じて形成された信仰と宗教性を受け止める事は、後に死ぬことになるトシの遺した意志に寄り添う事を意味し、それを通して賢治は彼女の魂と自分の魂の両方を救済しようとしていたのかもしれません
いずれにせよ、妹トシを元気づけるべく帰郷した宮沢賢治の書く作品には、トシを意識したと思われる童話や詩がいくつも見つかります。この時期の有名な作品としては「よだかの星」「風の又三郎」「月夜のでんしんばしら」があります。また<春と修羅>の詩作もほとんどこの時期に行われました。
高等農林学校にいた時代に書いたと思われる作品に「双子の星」というものがあります。チュンセ童子とポウセ童子という双子の星の話で、星座を意識するかのように大烏(からす)と蠍(さそり)が登場したり、彗星に乗って旅をしようとして、海に落ちたりする話です。
このチュンセとポーセはそれぞれ賢治と妹トシを指していると考えられています。チュンセはポーセにいたずらばかりしていますが、番外編となる「手紙 四」で俄かにポーセが病気にかかってしまいます。いつもいたずらばかりしているチュンセもこのときばかりは神妙になって「なんでも呉れてやる」と言ってポーセの頼みを聞こうとしますが、何も答えないポーセに「雨雪(あめゆき)をとって来て」やります。うなずいて三匙(みさじ)ほど雪をおいしそうに食べたポーセですが、そのまま急に動かなくなって息を引き取ってしまいます。
これは永訣の朝で知られる、妹ヨシが死について書かれた詩の中にある文章と一致します。これは岩手県の方言で「雨雪をとってきて下さい」という意味。まさに命のともしびが消えようとしているとき、妹は熱で火照った身体で「外の冷たい雨雪(みぞれ)が欲しい」と、兄に頼んだのです。どうすることもできない賢治は、お椀を手にみぞれが降りしきる外に飛び出しました。
手紙 四で、ポーセを喪ったチュンセは、この手紙を書いて印刷するよう命令した人からこんな言葉を言われます
4章 南十字星の行方
永訣の朝
松の針
「銀河鉄道の夜」と妹トシの死
銀河鉄道の夜、ジョバンニとカムパネルラの別れである、最後のシーンを知っているでしょうか。
天の川の一とこに空いた、大きなまっくらな石炭袋の孔を見て怖くなったジョバンニは、カムパネルラを勇気づけるように言います。
「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
これは永訣の朝で「わたしもまっすぐすすんでいくから」とトシに向かって歌った宮沢賢治自身であり、「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」と松の針でトシとの別れを嘆く姿は、カムパネルラとの別れに悲痛な叫び声をあげたジョバンニと一致します。
生前トシが自分の信念として「自省録」の中で書いた「凡ての人々に平等な無私の愛」を示す事。それをとおして「みんなのほんとうのさいはい」を見つけることで「どこまでもどこまでも」賢治とトシは「一緒に進んで」いける。トシの死後のたましいを追うようにトシの生前の信仰姿勢を深めることで、死んだ彼女のたましいを供養し救済できると考えていた宮沢賢治の言わば人生と信念の集大成が、銀河鉄道のこのシーンにつながっていることが読み取れます
そしてこの出来事が宮沢賢治のその後を決定したものと思われます。
それまでは東京で人造宝石業を営んでみようと考えていた彼が、今後の人生を自分の故郷の農民たちのために捧げることを決意します
5章 宮沢賢治の敗北(「羅須地人」運動)
30歳で教職を依頼退職してからの宮沢賢治の人生は主に二つに分けることができます。
自分の禁欲と自己犠牲を下に、農村の人々の生活をよりよいものとしようとした「羅須地人(らすちじん)」運動の時代。そして晩年となる闘病生活と並行し東北砕石工場技師として働いた時代です。
これは農民芸術概論綱要と呼ばれる10章ごと10行前後の短い命題によって構成された芸術論に記されたフレーズです
このような自分の信条を、自らの生き方と行いそのもので実践し体現しようとした宮沢賢治がはじめたのが羅須地人協会(らすちじんきょうかい)運動でしたが――結論から言えば、彼はその生涯を敗北のうちに閉じました
まずひとつに
賢治の理想は観念的すぎて農民たちに理解されませんでした。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)運動中、賢治は無料で肥料設計を行いつつ農民の農業指導を行うだけでなく、農村の営みの中から芸術が生まれるようレコードコンサートや音楽楽団の練習などをしています。しかしそうした機材を含む資金は父親からの援助頼りでした。農業で使うリヤカーひとつとっても農民たちにとっては高級品で、どこか賢治の行為は金持ちの道楽に見えしまっていたのです
ふたつめに
賢治自身がしあわせの形を示すことが出来なかったことがあげられます
これは賢治自身の作品を読むことでよくわかります。
銀河鉄道の夜ではジョバンニがカムパネルラに力強く「どこまでもどこまでも一緒に行こう」と言って、自らの体を焼いた蠍に習うことを厭わない決意を示し、カムパネルラもそれに応ずるのですが、その舌の根が乾かぬうちに「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」と二人とも困惑した表情をしています
春と修羅の第三集はちょうどこの羅須地人協会運動の時期と制作時期が重なる部分がありますが、その中の札幌市という作品で、賢治が内心で抱いていた落胆が読み取れます
結局、晩年の宮沢賢治の最後の活動は、東北砕石工場で石灰肥料の開発アドバイザーとしての農業技師の仕事になります。以前まで無料で提供していた肥料設計を、今度は開発から販路販売まで請け負うのです。このことで、後に宮沢賢治は羅須地人協会運動の時代に関わっていた一部の農民たちから「裏切者」扱いされたそうです
宮沢賢治の錯誤(よだかは何故醜いのか)
銀河鉄道の夜に登場する蠍の火は、よく宮沢賢治が書いた別の作品である「よだかの星」と比較されます
鷹の仲間でありながら誰にも認めてもらえず、名前をはく奪されそうになるよだかは、自分の醜さに絶望して、星座のひとつになることを望みます。最終的に飛び続けた結果、いつの間にか身体全体が燃えて星の一部になっていたよだかですが、何故よだかは醜く描かれているのでしょうか
目的を達したよだかは本来もっと美しく描かれてよいはずです
これは宮沢賢治が、自分自身の活動や信念に対して報われることを願っていつつも、報われることを願って自己犠牲に徹しきれない自分のことを醜く感じていたからではないでしょうか
私はここに、宮沢賢治が自己犠牲に対して抱いていたある種の錯誤があると思います。自己犠牲の本質は、形式美にあるのではなく、目的あってこそ幸福への意味を持つということです
宮沢賢治は妹ヨシの抱いていた信仰を含め、自分たちが抱く信仰や生き方の果てに幸福が実現できると考え、自己犠牲と禁欲、滅私奉公の中にさいわいを求めようとしました。しかし本質的に、幸福というのは他者によって与えられるものではなく、自分で設定し、定義し、その中で掴み取るものです。賢治は仏教を通して、何らかの大きな意義に対して自分の身を差し出す、いわば献身の生き方そのものに強い憧れを抱いていたようです。しかし、そうした振る舞いとしての自己犠牲という在り方や禁欲的な生き方と、それを取り巻く宗教観や芸術美に取り憑かれすぎて、本質的に人の幸福といったものを捉え損ねて、神か菩薩のようなものへの到達による苦しみからの解放ばかりを追い求めてしまった事が決定的な幸福への錯誤であるように私は見えました
苦しみに耐えることや、犠牲にすることばかりではなく、それを越えた先に叶えられる幸福、つまり夢や目標・希望といったものの形を明確に示す事ができなかった事が、彼の信念に内包されている大きな錯誤・幸せにたいする誤解だったのではないでしょうか
よだかを美しく描き、自分自身の幸福を肯定できなかったこと
それが宮沢賢治の大いなる信念の錯誤であり、彼の最大の悲劇だということはできないでしょうか
アメニモマケズ手帳の正体
宮沢賢治の最も有名な作品は、実は銀河鉄道の夜ではありません
彼の作品で最も有名な文芸は詩であり、それは「アメニモマケズ」という名前で知られています
実はあまり知られていませんがアメニモマケズはここで終わりません
そのあとにこのような文章が続きます
実はアメニモマケズとは、通称アメニモマケズ手帳と呼ばれる病床に伏していた宮沢賢治の手記であり、ここにはひたすら信仰上の反省と鬱情の言葉が記載されています。宮沢賢治は晩年まさに妹ヨシが書いていた「自省録」と同じことを書き連ねたものが後に知られる「アメニモマケズ」を生み出したのです
アメニモマケズ以外にはどのようなことが書かれているのか見てみると、次のような手記が見つかります
病気と宗教――アメニモマケズ手帳は、ただひたすらこのふたつが書かれています。書かれていることは清らかで美しくありつつも、そこはかとなく暗さを感じるのは当然と言えます
宮沢賢治の作品の編纂と評価で有名な天沢退二郎氏の著書
「宮沢賢治の彼方へ」の末尾<付録2>には
このアメニモマケズについてこのような論表が書かれています。
没後の宮沢賢治とその価値
1933年9月21日 宮沢賢治は肺湿潤で没っします。37歳でした
彼はさいわいを掴んだのでしょうか
南十字星で降りなかった彼は、自分自身の南十字星を臨終の果てに見ることができたのでしょうか
それは永遠の謎です
しかしすくなくとも、その死の境にあっても自分の信念を貫こうとしたことは分かります
死に際に賢治から頼まれた父・政次郎は、賢治から託された『国訳妙法蓮華経』を千部刊行領布することを実行します
これは宮沢賢治の生涯の最後になされた業績の一部です
生前、信仰の上で仲違いをしていたが故に、妹ヨシの葬儀においてすら意見を違えて、遺骨のすべてを分割してそれぞれの儀式で弔ってしまった賢治にとって、それでも自分を感動させた法華経は自分以外の多くの誰かを救いうるものだと信じ願ってやまなかったことが分かります
彼の死後、彼の作品は広く母国で読まれるようになりました
県や市が彼の名前を誇るようになり、イーハトーブは極東に生まれたファンタジーの一種として認識されるようになりました。宮沢賢治の名前が、もっと広く世界中の人に読まれる日もいつか訪れるかもしれません
そのとき、わたしたちはそこに、偉大なる男の人生の敗北があったこと。その敗北の記録、勘違い、錯誤の一部始終、その美しさと切なさはすべて、今を生きる私たちのために宮沢賢治という男が遺したものであることを、わたしたちは思い出すでしょう。あの日、銀河鉄道の夜でジョバンニが持っていた、生きている者だけがもつことのできる「どこへでも行ける切符」を持っているのは、ほかならぬ今を生きているわたしたちだけなのです
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