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『ZEROISM』14

『只者じゃない男女』カバー 藤沢奈緒

夜、純菜に、『菜の花』に呼び出された杉浦は、純菜が一番奥の席に座っているのを見て、厨房で片付けをしている弥生に会釈をしてから、二名がけのその場所に行った。
「南美さんは帰ってませんよね」
ノーネクタイのスーツ姿できた杉浦に、開口一番、純菜が言った。
「心配しなくても外川から聞いた。外川とホテルに一泊だ」
ほとんど無表情で言う杉浦。
「ごめんなさい」
純菜が頭を下げたのを見て、「何が?」と軽い声で言い、杉浦が笑みを浮かばせた。
「南美が誘ったと思う。だけど、経緯はまだ聞いてない。知ってる?」
「南美さんが富張に襲撃されて、カッとなって田原誠一郎を撃ち殺そうとしたのを数史さんが止めた流れみたいです」
「富張? なんで奴が?」
「数史さんが言うには、確証はないけど、田原誠一郎と富張がグル。富張は、数史さんと南美さんを夫婦だと思ってて、さかんに挑発した南美さんを憎んでる」
「富張じゃなくて、田原を状況判断だけで撃とうとしたのか。そりゃ、外川は止めるよ。田原は南美を攻撃してないらしいし、ゼロイズムだとしても、藤原みたいに騙されてる人間もいる」
「うん。しかも、数史さんの拳銃を騙し取って撃とうとしたらしい」
「分かった。この案件は俺たちでやろう」
「それ! さすが、杉浦さん」
純菜は刹那、笑顔を見せたが、また真顔になり、
「聞いていいですか」
と口にし、杉浦を見た。彼が頷くと、
「北海道に行った時に、ちゃんと抱いてましたよね?‥‥なんで子供はあきらめたんですか」
口元を落ち着かせなく、途中、何度か言葉を止めていた。
「子供を育てる自信がないそうだ。ゼロイズムに対する憎悪を持ったまま、奴らの捜査もするとして、子供は育てられない」
「あ、そ、そうかも‥‥」
「まだ三十二だから、四十歳までにゼロイズムを壊滅させたら、その気になるかも知れないし、今は子供の話はしないようにしてる」
「そうだったんですか。わたしたち、ふざけて杉浦さんが不能とかからかってて、すみませんでした」
「あんまりかしこまらないでくれよ。いつもの純菜ちゃんで」
「いつかはこうなるとは分かってたけど、きゃー、きゃー、笑えないよ」
「まあね」
「でも‥‥」
「ん?」
「言いにくいんだけど、杉浦さんがいないままだったら、数史さんと南美さん、もっと早く結ばれてたと思うから。杉浦さんが悪いんじゃなくて。なんか、南美さん、杉浦さんと数史さんを違う目で見てるの。どっちも女の目なんだけど‥‥」
「分かってる。南美は、ずっと外川が好きだった。純菜ちゃんも聞いた事があるよね。俺たちは幼馴染で、南美は兄みたいな俺しか知らないんだ。南美から見て外川は、初めてのタイプの男。そりゃ、好きになるし、抱かれたいと思うよ。俺から見ても、外川はいい男だからな」
「杉浦さんを愛してますよ」
「分かってる」
二人が水だけで話をしているのを見た弥生が、コーヒーを持ってきて、
「数史さんと南美ちゃん、事件に巻き込まれたの?」
と心配そうに聞いた。二人が黙って頷き、純菜が、
「南美さんが頭を打って、数史さんと病院にいる。精密検査だけですぐに帰ってくる」
と母に教えた。

世田谷の自宅に戻った田原誠一郎は、スコッチを飲みながら窓から外を見た。
ーー警察はもういないな。
すぐにカーテンを閉め、スマートフォンを手にした。
恰幅のいい、清潔感のある男で年齢は五十三歳。澄子が四十四歳だった。映画のプロデューサーをしている田原誠一郎は誰かに電話をかけた。
「予想通り邪魔が入りました。森長英治という妻の知人の警察官がボスみたいです。部署は分かりません」
「こちらで調べます」
「妻はあなたたちにびびっている。『サイレント脳』にLGBT問題を押し込んでいきますよ。奥原ゆう子主演の大ヒットドラマ。女性の心を持った男性が女子更衣室を使うシーンも入れさせます」
「世の中はそうして変わって行く。変えるのは愚民」
声は女だった。
「はい。いつの時代も大衆と言う名の愚民は洗脳しやすい。こちらは、多様性に配慮、と綺麗な言葉を作ればいいだけ」
「女の被害者が出たら、芸能人の不倫のニュースでも流せば、被害者の声は忘れられる。民度が低いとわたしたちは儲かる上に、世の中は平等になる」
「はい。毎日、美味しいお酒が飲めてる」
「出来れば、外国から優秀な医師が来日し、その医師を黒人に」
「そちらの方があの物語なら簡単そうです」
「ところで奥様が倒れた現場に来たのは?」
「たぶん、杉浦南美の夫が、うちの澄子を助けにきました。護衛していたのは部外者の警察官。杉浦と一緒に来た若い女は不明です」
「富張巧をホームレスにした女の旦那。あなたの目の敵ね」
「富張巧がいなくなって、貴重なマスコミの人材を失った。ひどい損失です」
「高洲響子と連絡が取れない」
「高洲?」
「知らないの?富張巧の不倫をネットに流した、私たちの仲間だった女。警視庁に寝返ったなら始末しないと」
「始末?暴力的な殺人は、他の人間に頼んで下さい。私の仕事は大衆を洗脳するだけです」
「のんきね。杉浦たちは凶暴なのに」
「見てました。只者じゃない‥‥あの男女‥‥」
田原誠一郎は電話を切り、また窓の外を見た。破損した車のガラスが少し残っている。
ーー富張に聞いた限り、凶暴なだけの猿じゃない。警視庁の特殊警察みたいな連中か。『サイレント脳』が終わったらいったん離れたいが、脱会みたいな真似をした高洲という女は始末されるのか。差別を無くすための活動だけだと思っていたが。
田原誠一郎は眉間を人差し指で押して、
「怖いな、エリート官僚は」
と呟いた。

翌日、菜の花に戻ってきた外川が、杉浦と純菜の前で森長宛に報告書を作っていたら、バイトをしている南美が三人にコーヒーを運んできた。
舐めるように三人を見ると、妖艶な笑みを浮かばせて、
「わたしたち、そんな仕事より他にする事があると思う。それは愛!」
と言い、優雅に振る舞いながら厨房に戻った。
「なにあれ?」
純菜が目を丸めた。
「帰ってきてから、ずっとあの調子。ちなみに、俺は知らないと思ってる。自分は田原を見張ってたって事になってると思ってるのかな」
杉浦が苦笑いをした。外川はなにやら困惑している。
「純菜ちゃんには何か言ったか、あいつ」
「言うも何も、わたし、ホテルで会ったから。遊園地にいるみたいな顔してたから、見ないふりをして帰った」
「ごめんな。なんとなく想像できるが‥‥」
杉浦が大きなため息をついた。
「失敗した」
外川がポツリと呟いた。純菜が言葉の続きを促すと、
「昨日の出来事や交わした言葉を忘れるようにドラッグを与えたら、彼女、耐性があるのか、妙に薬に強くて、余計に良かったみたいで」
肩を落としてる。
「ヴィトンの中のドラッグね。キメセクしてどーすんだ」
純菜がテーブルの下から夫の足を蹴った。
「痛いな。どこでそんな言葉、覚えたんだ。セックスは忘れない方がいいんだ。中途半端に覚えてたら、レイプっぽく思う女もいる。そうじゃなくて、落ち着かせるためにいろんな言葉を作った。それを朝から覚えてて、びっくりだよ」
「まさか、愛してるとか」
純菜が睨みつける。
「言ってない。おまえと南美さん、俺を睨みつけるばかりだ。富張に襲撃された前後の修羅場を少しは労えよ。俺の車、見たか?」
「この仕事を辞めろとか、言った?」
杉浦が訊く。
「そんな感じ。藤原とコンビを組むのは嫌だなあ」
「辞めさせなくていいよ。おまえの隣にいる南美は面白いから。ただ、今回は外そう」
「杉浦さん、もっと頑張ってよ。数史さん、南美さんに取られちゃう」
「向こうが頑張ってきた。帰宅するなり、抱きついてきてキスとかされた。浮気してごめんなさい、じゃなくて、これからもよろしく!みたいな事を元気にまくしたててたな」
「はあ? 表参道事件から、ずっとメンヘラだと思う。数史さんを介護してた時の目、わたし、怖かったもん」
純菜がため息をついた。
「表参道は関係なく、昔からメンヘラ。バカにドラッグが効かないんだよ。バカが余計バカになっただけ」 
杉浦の悪い言葉が珍しく、外川と純菜が思わず笑ってしまった。

東高女子医大。午後13時。
嘔吐だけですぐに退院してきた田原澄子が、病院のロビーで会計をしている。それを純菜が待合室から見ていた。
「タクシーを呼びました。来てください」
田原澄子がタクシーに乗ると、すぐ後に、杉浦のホンダがやってきて、純菜が助手席に乗った。
「森長さんから連絡があって、富張は完全黙秘だそうだ。それから、田原澄子が嘔吐した件は、横川さんが騒いたが事件性がないとして、鑑識はコーヒーを調べてない。他の客にも被害はないから保健所も何もしてない。つまり、田原澄子のただの体調不良になった」
「だから、数史さん、わたしに取って来るように言ったんだ。仕事は隙がないのに、南美さんには簡単に拳銃を取られるんだな」
口を尖らせて言う。杉浦がタクシーを目で追いながら、
「夫の俺が赤面するような猥褻なことを言って奪ったらしいから、あんまり怒るな」
と笑った。
「わたしには教えてくれないの?その猥褻な言葉」
「南美に習えば?男はすぐにホテルに連れて行ってくれるよ」
「それがさあ。人の旦那を寝取っといて、ごめんね、もないばかりか、純菜ちゃんは毎晩楽しいでしょ、って目を輝かせながら言ってきた。こっちは普通だよ。ドラッグやってないし!」
「ごめんなー」
「え?怒ってないよ。わたしが数史さんに、南美さんが暴走したら、ベッドインの許可を出してたから。だけど、かたち的には人の旦那を寝取ったわけなのに、無反省だからびっくりだ」
「外川は俺に電話をしてきたからな。南美とホテルに到着した時がチェックインの時間帯じゃなかったんだが、警視庁が一部屋確保してあって、そこを使うか空いてる部屋を二泊分取るかって意味がわからん電話だった」
「奥さんを抱いていいですか?じゃなくて?」
純菜が呆然としている。
「手に負えないから薬で寝かせる、とは言った。やるかやらないかは、まだ未定だったんじゃないか」
「なるほど。数史さんもメンヘラかと思った」
「まさか。なんか俺の苦労が分かったみたいで、おまえ、よくあれと一緒に暮らしてるなって」
「友達の奥さんを寝取っといて、あれ!?やっぱり、あの人はおかしい! 本当に、うちの主人がすみません!」
純菜が妻の顔をして、また頭を下げた。
タクシーはテレビ局でも世田谷の自宅でもなく、仕事部屋の高層マンションに着いた。
夫の田原誠一郎がいないのを確認して、エントランスホールで、二人は声をかけた。
「あの時の刑事さんたち‥」
「杉浦です。お部屋を拝見したいのですが、男性に見られては困るものを片付けてくれませんか。ここで待ってます」
「部屋?」
「なんなら、この新人だけでもいいです。コーヒーにご自分の砂糖を入れた。捜査課には知られてません。私は公安。先生は、森長さんとお知り合いらしい。公安が動いてる、事の重大さが分かるなら、協力してください」
田原澄子は頷き、ほどなくして、二人は部屋に通された。
「砂糖はどこですか」
杉浦が訊くと、澄子がキッチンの棚を見た。
純菜がスティックの砂糖が入った瓶を持ってきた。オーガニックだ。テーブルを借りて、十五本ほどあるスティックを並べた。
「ホテルで飲んだコーヒーから、総アルカロイドの成分が検出されました」
「総アルカロイド?」
「お仕事でミステリーを書く時の参考にどうぞ。催吐剤に使う成分です」
「催吐……」
「胃液とかを吐かせる薬ですよ。市販もされてたかな。もちろんあのホテルに過失はなく、成分は主に先生の砂糖から検出されてます」
田原澄子が黙っていたら、純菜がやんわりと、
「砂糖を入れ替える事ができる人に心当たりは?これ、無名の食品会社です。ビーナス&マース食品。先輩、わたしの浮気男に言っておきます?」
外川は、カフェ菜の花でいた。
まだ南美は情緒不安定で、外川と棚橋夫妻が監視していた。
「まあ、まあ、落ち着いて。あのカフェでは浮気しないよ」
二人の話が和やかで、田原澄子が気を許したのか、
「お嬢さんの彼氏の刑事さんが浮気したんですか」
と少し笑いながら言った。
「はい。しかも不倫なんです。どうしたらいいですか、先生」
「一回だけで謝ってるなら、まだ若いから様子を見る時間はありますよ。わたしみたいなおばさんになったら、すぐに決断しないといけませんが」
「とんでもないです。先生もまだお若いです。では決断の電話をします」
純菜が外川に電話をする。
「かずさん、お疲れ様。田原澄子さんが飲んだ砂糖の会社はビーナス&マース食品です」
「ポール・マッカートニーの曲だ」
「あ、そう。若いわたしにはわかんない。大人のお姉さんとカフェで浮気するなよ」
純菜はそう釘をさし、通話を切った。
「先輩、あの女は今のところは大人しくバイトしてるみたい。あ、先生、警視庁のカフェです」
「公安の警察官にも生活臭さがあるんですね。森長さんは、テロを描いた映画の完成試写会のパーティに警備に来ていた時からの知り合いですが、自分の話はしない人です」
「部署が違って、森長さんは素性を隠さないといけないんです。僕らも迂闊には名前を言えない。その名前ですが……。誰かに私の名前を教えましたよね?救急車か病院で」
「え?」
田原澄子は考える様子を見せた後、
「ああ、主人に」
と言った。
「ホテルでお使いになったスティックの砂糖は?持ってなかった」
「テーブルかコーヒーカップのお皿に置いたはずです」
杉浦が思わず純菜を見た。
「なかったよ。床に落ちてたのかな」
純菜が目を丸めた。
「主人が私の砂糖に細工したと?」
「食品会社の過失なら、今頃ニュースになってます。ご主人やご友人なら、先生が携帯した砂糖をピンポイントで狙える。これ、もらって帰ってよろしいですか」
「はい。無くて困るものではないので」
田原澄子はまた思慮深い面持ちになり、
「もし、主人だとして、なんのために?」
と言い、杉浦を見た。
「夫婦間のことは私にはわかりません。そうだ。森長さんから聞いたのですが、『サイレント脳』の続編があるそうで、LGBTの件はどうされます?」
「頑張って押し込もうかと」
「頑張らなくていいですよ。わたし、前と同じ俳優さんのレギュラーで見たいです」
純菜が笑顔で言う。
「でも怖くて…」
田原澄子は俯いて、少し悔しそうに唇を噛んだ。

杉浦たちがエントランスから出たのを確認した田原澄子は、夫の誠一郎に電話をした。
「あなたの指示通り、嘔吐する総アルカロイド入りの砂糖も飲んで、砂糖のスティックはガーデンの水の中に捨てた。万が一のために救急隊員の前でもお芝居をして、富張の仇の杉浦とその仲間を見つけたのに、どこが只者じゃないの?」
「何が?もう一人の若い女の名前は?」
「分からない。言わなかった」
「どんな様子だった?」
「只者じゃないって言うから緊張してたのに、色ボケした、そのへんにいる若い女の子よ」
「そうか。その女の子は、杉浦の仲間じゃなくて、ただの部下かもな」
「絶対に特殊警察じゃないわ」
澄子はそう教えた後、
「あんまり無理は言わないで。奥原ゆう子さんとか失いたくないの」
と言い、「疲れた」と呟いた。

「色ボケしてる女の子?!」
純菜が目を大きく見開いて、思わず握りしめた手を怒りで震わせた。
路上駐車している車に乗った二人は、澄子の部屋に仕掛けた盗聴器から、澄子と誠一郎の会話を聞いていた。
「純菜ちゃんが次に何を言いたいか当てようか」
杉浦が笑いを必死に堪えている。
「え?い、いいよ」
「色ボケしてるのは南美だ!」
「‥‥‥ま、まあ、正解かな」
杉浦がお腹を抱えて笑ったら、純菜が少し嬉しそうに微笑んだ。
「杉浦さんがそんなに笑ってくれたなら、あの逆NTRは許しておくか」
「許す許さないはないよ。悪意がないんだから」
純菜が頷いた。そして、
「わたしたち、ゼロイズムにめっちゃバカにされてます」
と言い、苦笑いをした。
「只者じゃないよ。特に純菜ちゃんの旦那と俺の妻」
「銃撃されたら、不倫ごっこ始めるくらい只者じゃない男女」
純菜が呆れ返って、また笑った。
杉浦は大きく息を吐き出し、
「富張に復讐させるために、俺たちを捜してたんだな。『サイレント脳』の件を警視庁に漏らせば、俺たちが動くと思ったわけだ」
「黒幕みたいなのがいるのかな」
「さあ。‥‥飽きてきた。レベルの違いを見せてやるか」
と言い、外川と南美がいる『菜の花』に向かった。
『ZEROISM14』了。




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